笑う電話
少し眠くなってきたか。
そんなことをボンヤリ感じていると、目の前の電話が鳴った。
「もしもし?」
たまたま近くにいたから出た。それだけだった。
電話の向こうからは妙に馴れ馴れしい男の声が響く。
「よう、俺だよ俺。久し振り」
電話を取った側は不快そうな顔になる。いきなり気安く話しかけてくる他人は嫌いだった。
声に聞き覚えは無かったし、俺と言われても分からない。この電話は仕事に関係する要件でしか繋がらないのだから、間違いでかかってきたはずはないが。
「あの、誰ですか」
当然の質問。しかし男は大げさに驚いてみせる。
「おいおい、俺が誰か分からないとか」
不愉快だ。仕事の電話でなければ切っているところだ。
「名乗らないと切りますよ」
面倒になって脅してみる。礼儀を知らない相手のようだし、こちらも礼儀を欠いた対応をしても文句を言われる筋合いはない。
電話の向こうの相手は数秒の沈黙の後、低い笑い声をもらして疑問へ答えた。
「……俺はお前だ」
「……はぁ?」
本当に仕事関係の電話なのか不安になってきた。
「はぁ? じゃねぇよ。お前は自分のことも分かんねぇのか?」
「自分のことは分かりますよ。今はあなたの話でしょう」
「だから、俺はお前だって」
「じゃあ……あなたが俺なら、俺の名前は分かりますか?」
「お前ごときの名前とか」
「切ります」
「ヒロだろ」
正解だ。
ヒロは驚いて受話器を落としそうになる。まさか当ててくるとは思わなかった。
「あぁ、なんだ……本当に知り合いなんですね」
こんなに偉そうな知り合いなら覚えていそうなものだが。
応じつつもヒロは思考する。記憶力に自信のある彼だが、確信を持ってコイツだと言える人物は浮かんでこない。声から分かるのは若い男ということと、軽薄な印象を受けるということ。
ヒロの違和感を知ってか知らずか、まだ男はヘラヘラしている。
「知り合いじゃねーよ、お前だっつってんだろ」
「……あの、本気で誰か分からないんで名前を教えてください」
電話を取って数分も経っていないがヒロは既にウンザリしてきた。
彼の問いは真っ当なものだったが、対する男は突然大声を上げる。
「……あぁっ! ったく、もう良いわ!」
「!?」
脳を揺らされたような衝撃が耳から伝わり、ヒロは思わず受話器を放り投げて耳を押さえた。
「こんな話をするために電話してるんじゃねぇんだよ! このグズ!」
コードにぶら下がった受話器からは男の弾けるような嘲笑いがもれている。
ヒロはそれを睨んで耳の穴へ指を突っ込んだりしていたが、やがて落ち着きを取り戻すと恐る恐る拾った。
「えーと……なら、さっさと用件をお願いしていいですか?」
どこの誰だか分からないが、用があって電話してきたのは確かだろう。内容を聞けばコイツが誰かの検討もつくかもしれない。
が、なぜか男は考えるような様子になった。
「用っつうーか……確認するために電話したんだけど」
「はい」
電話の脇に常備されているメモ帳を引き寄せヒロは続きをうながす。男の態度は不愉快だが、仕事である以上ないがしろな対応はできない。
電話の向こう側はしばし無言だったが、やがて短く問いを発した。
「 は元気か?」
男が何か、言った。
ヒロに分かったのはそれだけだ。音が言葉なのは理解できたが、その内容は、意味は、耳から脳へ届く前にかき消された。しかし聞いた瞬間、目の前が真っ白になる衝撃が頭の中を駆け巡り、吐き気を催す。
「……っ!?」
とっさにヒロは耳へ手を当てる。耳も手も、まるで自分のものではないような余所余所しさを感じた。馴染ませようと右手で耳を包む。
「……おーい? もしもーし?」
電話の向こうで呼びかける音が聞こえた。ニヤついているのが目に浮かぶような男の口調。
正体不明の人物に対する不快感と不安が胸の底を這いずり、それに堪りかねたヒロは威嚇交じりの声を上げる。
「……お前、誰だ」
「だから、お前だよ」
「ふざけんな。今、なんて言ったんだ?」
「だから」
男は何かを言おうとした。瞬間、受話器の向こうから激しいノイズが響いて言葉をかき消す。
「あっ、クソ! またか!?」
慌てた声がヒロの耳に届いた。何が起こっているのか分からない彼は不可解そうに問いかける。
「おい? どうした?」
そうしている間にノイズは収まっていく。どうやら相手側の通信状況が悪かったらしく、受話器の向こうからは安堵の息遣いが聞こえた。
「……あぁ、こっちの話だ。気にすんな」
「いや、気になるよ。今のはなんだ? つーか、お前は本当に誰なんだ?」
苛つきながらヒロは問う。電話にノイズが入るのもおかしいし、なんなら話している相手もおかしい。おかしいことだらけで疑問は尽きないのだが、問われている側の態度は相変わらず軽い。
「あー……この感じだと、どっから説明したもんかなぁ……」
ブツブツ言って面倒そうにしていたが、男はヒロが急かすより先に台詞を続けた。
「えぇと……俺が言った言葉はな、女の名前なんだよ」
予想外の内容にヒロはきょとんとする。
「女?」
「お前の身近に女がいんだろ?」
「……アヤか?」
「違う」
「まさかヨモか?」
「違う。生身の女だ」
「……なら、心当たりはねぇよ」
「マジか……その齢でお前……」
「…………」
この電話は悪戯電話のような気がしてきた。用件の無い人物からの電話が繋がるはずがないのだが。
先ほどまで男へ抱いていたうっとおしさは冷め、今ヒロの心を侵食し始めたのは不気味さだった。
「……切るぞ」
緊張気味に言い捨てるとヒロは受話器を置こうとする。が、そこへ慌てた男の声が小さく響いた。
「待てって! 俺が何度電話してると思ってんだっ」
「……ちゃんと用があるんだろうな?」
うんざりした態度でヒロが尋ねると、男は考え込むような唸り声をもらしてから用件を告げる。
「……じゃーさ、俺が誰か当ててくれよ」
「は?」
「俺のことを調べるのがお前の仕事」
「何言ってんだ?」
「だってお前、俺が分からないんだろ? 俺はお前のこと知ってるのに不公平じゃねーか」
男がニヤニヤしているのが聞いているだけで伝わってきた。
おかしい。これは仕事ではない。やはり男は、用も無いのにこの電話にかけてきたのだ。そんなことが出来るはずがないのに。
「ふざけんな。もう一度聞くぞ。用件は何だ?」
「しつこいな。真実を知るのが恐いのか?」
「用件を」
用があるならさっさと言ってくれと、もはや祈るような気持ちでヒロは問う。しかし、そんな思いを見透かしたようにふざけた声は再び沈黙した。
「……もう切るからな」
切ってしまおう。この男は、この電話はおかしいのだ。おかしくなってしまったのだ。そうに違いない。
途端、電話の向こうで呼びかける音が聞こえた。
「……あ、ちょっと待て! じゃあさ、質問でも良いか?」
相変わらずニヤついているのが目に浮かぶ声。継続され続ける的外れな要求にヒロは困惑を隠せない。
「いや、だから、そういうんじゃなくて」
どうすれば男との通話を終えられるのかヒロには分からなくなっていた。
やりとりに疲れつつある彼だが、対照的に電話の向こうの男は急に真面目な口調に変わった。
「お前さ、なんでそこにいんの?」
「えっ?」
すっかり相手のペースに乗せられたヒロはどぎまぎして答える。
「……それは、仕事で」
が、男は台詞をさえぎった。
「そうじゃねーよ。分かってんだろ?」
「だから、仕事で……」
ヒロの言葉は続かず空気へ溶けていく。無言になった彼へ男は呆れた声を浴びせかけた。
「あぁ、こりゃあ分かってねぇな? てか、忘れやがったか」
「え?」
戸惑うヒロへ男は見下したように問いを続ける。
「お前さ、どうして自分がそこにいるか分かってねぇんだよな?」
その台詞にヒロは驚いたが、次の瞬間には不可解そうな形相を浮かべていた。
「……なんで、それを」
なぜここで仕事をしているか、なぜここにいるか、ここに来る前は何をしていたか。実はヒロには何も思い出せなかった。
心の中を読まれた気分になった彼は気色悪そうに受話器を見つめたが、一方で電話の相手はあっさりと答えてみせた。
「お前が言ってたんじゃねぇか」
「はぁ?」
「まぁ、この話はいいわ」
ヒロの違和感を男は平然と受け流すと、自分の言いたいことを繋げていく。
「とにかく、お前は自分の過去が分かんねぇし、それに違和感を感じていないらしい。俺の質問は、それって変じゃね? ってことだ」
「……変じゃねぇよ」
「変なんだって。馬鹿かお前」
男は嘲笑い交じりに否定すると、ヒロが反論するより先に更に話す。
「だから、お前は自分の存在に疑問を持つべきなんだよ。お前がそこにいる理由が分かれば、俺の正体も分かるはずだしな」
「んなワケないだろ」
「んなワケあるんだよ。俺はお前だから」
確信を持って言い切ると、男は深く息を吐き出す。
「はぁー……ったく。お前は俺なのに、どうしてそう、ボンヤリしてんのかなぁ」
相手のテンションが下がったのを知り、なんだか珍しい反応だなとヒロはボンヤリ考えていた。
「仕方ねぇ、もう一回仕切り直す。仕事、忘れるなよ」
仕事。そう、この電話には仕事の用件がかかってくるのだから、下らない会話をしている場合ではない。
その意味をヒロが理解するのと、男が別れの挨拶をするのは同時だった。
「じゃ、またな」
言うなり、男は返事を待たずに電話を切ってしまった。電子音が静かにヒロの耳へ届く。
「……?」
ヒロはしばらく受話器を掴んだまま呆然としていた。何度も聞こえる無機質な音を不快に感じ始めた頃、やっと彼は受話器を置く。
無音になった部屋で一人、ヒロは意味も無く周囲を見回した。普段通りなのを確認すると安心したように全身の力を抜く。
今の電話はなんだったのだろうかと、ヒロは無言で考えた。しかし奇妙なことに、男との会話はまるで幻だったように断片的にしか思い出せない。手元のメモ帳は白紙の状態で、何も無かったのだと突きつけてくる。眺めるうちに不安が増し、彼は紙束を元の位置へ戻した。
どうして何も記憶に残っていないのか。ヒロは不明瞭な頭で回想するが、まるで思い出すのを脳が拒否しているように具体的な内容が出てこず、何も掴めないまま中身が消えていく。
気分が悪くなった事実だけが違和感として喉に残っていた。喉をさすると息苦しさを感じたが、それと同時に自分が生きている、正常であるのが確認できた気がして彼はホッとする。
いつもと同じだと言い聞かせていると、男とのやりとりが全てリアルな夢だったような気分になってきた。あまりにどうでもいい会話が長々と続いたため、半分寝ながら相手をしていたのだろう。内容どころか、もう声すら思い出せない。きっとその程度のことだったのだ。
思考を止めたヒロは緊張していた身体を伸ばした。思わず出たあくびを噛み殺す。不思議と清々しい気分になり、考え込んでいたのすら嘘のように感じてきた。悩むことは無い。何も無かったのだから。
少し眠くなってきたか。
そんなことをボンヤリ感じていると、目の前の電話が鳴った。
「もしもし?」
たまたま近くにいたから出た。それだけだった。
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