色あせた誘い
1
「ホラよ。コレだろ?」
ハヤテに差し出された本をリンは笑顔で受け取った。
「ありがとうございます!」
現在地はアヤの部屋。悪霊を癒す病院、の地下に出来上がった駅だ。
仕事を終え冥界から帰ってきたハヤテから、リンは忘れ物である本を受け取っていた。初めて冥界へ行った日、船に置いたまま忘れられていた本は、後日ミツセが見つけて大切に保管してくれていたようで、傷や汚れもなく少女の元へ帰ってきてくれた。
安堵した様子で本を確認しているリンへハヤテは尋ねる。
「その本、大事なモンなのか?」
「これ、もらった本なんです。患者さんから、面白いから読んでみたらって」
少女は本を愛おしそうに撫でた。古びた本の表紙には女の子とウサギの絵が描かれている。
「私、この本がきっかけで本を読むようになったので……大事な本なんです」
「そのワリには冥界に忘れてったみたいだけどな」
「だ、だって……初めて冥界に行って、凄く色々あったから……」
リンは顔を赤らめて反論した。それを愉快そうに見下ろしていたハヤテだが、少女の言葉に不可解な点が含まれているのに気付いて首を傾げる。
「……患者から本をもらったって、おかしくねェか? ココの患者って悪霊だろ?」
基本的に死者は物を持っていない。特定の物に対して非常に強い執着を持つ悪霊もいるが、そういった患者から物を渡されるのは極めて稀だ。
彼の疑問を受けたリンは慌てて発言を訂正する。
「あ、えぇと……こことは別の、普通の病院があるんですけど、そこの患者さんからもらったんです」
台詞が言い直されたことでハヤテは合点したらしかった。
「普通の病院って……悪霊じゃなく、人用の病院ってことか」
「はい。館から行けるんです」
当然のように頷いたリンを見て彼は難し気な形相になる。
「妙な場所だぜ、まったく」
悪霊は館への出入りを禁じられている。そのためハヤテは館へ行ったことはなく、館の話をされてもピンと来ないらしい。
(悪霊の皆が館に行けないのは迷子になっちゃうからかな? 館って色んな部屋に行けてややこしいし)
そんなことを考えていたリンだったが、少女が何か言うより先に再度ハヤテが口を開いた。
「……なァ、その本って生きてるヤツからもらったんだよな?」
彼はなぜか眉間にシワを作って考え込む顔つきになっている。不思議に感じながらもリンは素直に頷いた。
「はい。そうですけど……」
「ソイツ、元気そうだったか?」
「えっ? えーと……顔色は、悪かったのです」
続く質問にも少女はおずおずと回答する。
しばしハヤテはキョトンとしているリンを見下ろしていたが、やがて言い辛そうに自身の考えを告げた。
「ソイツさァ……死んだんじゃねェの?」
「ええぇっ!? どど、どういうことですかっ」
動転したまま問いかけた少女へ、ハヤテは苦い表情で話を続ける。
「いや、本をオマエにやったってことは、もうその本を読むつもりはねェってことだろ? 病院の入院患者がそんなことするってのは、つまりそういうことなんじゃねェかと思ってよ」
「そ、そんな……!」
唖然としたリンへ更に彼は問いかけた。
「本をもらってから、ソイツに会ったか?」
「ううん。会いたかったんですけど、会ったのがシノにバレて、もう二度と会っちゃいけないって怒られたから……」
「…………」
その台詞を聞いた途端、ハヤテの金色の瞳がスッと細くなる。しかし変化は一瞬のことで、すぐさま普段の様子に戻った彼は話題に沿った返事をした。
「……会っただけで医者が怒ったってことは、絶対安静の患者だったんじゃねェのかな」
「……!」
リンは目を見開いて固まっている。
悪霊と共に過ごしているリンにとって死は身近だ。しかし彼女が知っている死は既に死んでいる者の死であり、それは旅立ちに近い過程だった。だから、生き物の命が終わるという意味での死は馴染みがなく、故に少女は激しく困惑している。
(そ……そんなことないよね……?)
自分へ読書の楽しさを教えてくれた恩人が、もうこの世にいないかもしれない。その可能性を突き付けられたリンは抱きかかえている本をぎゅっと握りしめた。
駅を後にしたリンは一目散にシノの部屋へ向かった。目指すは病棟区域だ。
目的地へ続く扉の前に立った少女は、一度ゆっくり深呼吸する。
(確かめなきゃ……)
手に持ったままの本を見つめ、覚悟を決めたリンは扉を開く。目の前に広がったのは真っ白な通路。それはアヤの部屋と同じく一般的な病院に近い構造の廊下だったが、不自然なほどに人の気配がなく静まり返っていた。
点々と続いていく閉ざされた扉を横目に、リンは恐る恐る通路を進んでいく。シノに見つかったら問答無用で追い出されるのではと警戒していたが、幸い彼は別の場所にいるようで、少女は咎められずに目的の病室へ到着した。
出来る限り音がしないよう、リンは慎重に扉を開ける。扉が横にスライドしたことで室内の様子は徐々に明らかになっていったが、その光景の中に予想外の人物を見つけ少女は灰色の瞳を丸くした。
(あれ?)
廊下と同じく真っ白な病室。その部屋の中央に、長身の黒衣の男がポツンと立ち尽くしている。彼を見知っているリンは不思議そうに声をかけた。
「……イサ? 何してるの?」
名を呼ばれたイサは一拍の間を挟んで少女へ視線を向ける。
「……リンか」
彼の頭部を覆うウサギを模したヘルメットにリンの顔が映り込んだ。しばし少女はそれを見上げていたが、やがてイサが顔を背けたことで彼が質問に答えるつもりがないのを理解した。
口下手なイサは気分が乗らないと会話を嫌がる。それを知っていたリンは気を損ねることもなかったが、それでも次の疑問は自然と口から零れ出ていた。
「あの……この部屋に入院してた人は……?」
少女は不安そうに周囲を見回す。室内はガランとしており、入院患者どころかベットすらもなかったのだ。
空っぽの病室の意味を知っているリンの心に嫌な予感が渦巻く。問われたイサは再度のろのろと彼女の方へ顔を向け、やがて低い声で短く答えた。
「……死んだ」
「!」
その事実を告げられた瞬間、リンの頭の中は真っ白になってしまう。嫌な予感は呆気なく現実となってしまった。ハヤテの言っていた「もうその本を読むつもりはない」という台詞が頭を過る。
本を抱きしめたまま固まっている少女へ、イサは呻くような口調で問いかけた。
「……何か用か」
「…………」
どうやらイサはリンを邪魔に感じており、できれば退室してほしいと考えているようだ。少女はそれを察していたが、幼い彼女は自身の混乱を抑え込めなかった。リンはポツポツと、この病室での短い交流について彼へ説明する。
話の内容はイサにとって興味深かったらしく、語り終えた頃には彼の態度は軟化していた。
「そうか……本を……」
イサは少女の腕の中の本をじっと見つめる。リンは寂しげに本を撫でた。
「私、もう一回、あの人にお礼を言いたくて……」
シノに止められようとも、なんとか会う機会が作れたのではないか。少女は心の中で後悔したが、もう遅い。
イサは顔を上げると病室内へ視線を動かし、呟いた。
「もう、ここには誰もいない」
「うん……」
明かな事実を告げる言葉にリンは大人しく頷くしかない。
イサは再度少女へ視線を向けると、彼女が抱いている本をゆらりと指さした。
「……その本」
「え?」
つられる格好でリンも本へ視線を下げる。彼は本を指さしたまま淡白に用件を告げた。
「おそらく、ヒロの部屋から持ってきたものだ。ヒロに返しておいてほしい」
「う、うん……」
リンはぎこちなく了承する。この本がヒロの所有物だという発想はなかったため、イサの発言には少々驚いていた。
言われるがまま少女は病室を後にしようとしたが、扉を閉める際に少しだけイサの様子をうかがう。既に彼はリンへの関心を失ったらしく、訪れた当初と同じように室内で棒立ちになっていた。
その背中が普段より丸まっているように思え、ふとリンは引っ掛かりを覚える。
(なんかイサ、寂しそう……)
イサの口振りからして、彼はこの病室にいた患者と知り合いのようだった。もしかしたら友達だったのだろうか。
不思議に感じたリンだったが、詳しく聞ける空気ではない。少女は本を抱え直すと、静かに病室の前から立ち去った。
2
リンは館を経由し、今度はヒロの部屋へ向かう。私室にいた彼は何やらゲームをしていたが、少女の訪問に気付くと嫌な顔もせず作業を中断した。
いつも通りの軽い挨拶を告げた後、リンは手早く疑問を尋ねた。
「これってヒロの本?」
「ん? どれ……」
ヒロはソファに座ったまま少女に差し出された本を受け取る。
「ずいぶん古いな……『不思議の国のアリス』……?」
タイトルを読んだ彼は考え込んだ顔つきで内容を確認していった。そのまま無言で奥付までページをめくったが、やがて首を横に振って本を閉じる。
「……いや、図書室には置いてない本だな。これがどうかしたか?」
ヒロの問いにリンは素直に応じた。
「あのね、ずっと前にシノの部屋の患者さんにもらったの」
「シノの部屋の?」
「うん。青白い肌の、目隠しをした女の人から」
「え……」
その回答を聞いた途端、彼の灰色の顔に陰りが過った。リンも少しうつむき加減になって言葉を続ける。
「……もう今は、死んじゃったんだって」
恩人の死。それを告げられた数分前の光景を思い出し、少女の心はチクリと痛んだ。同時に病室で感じた違和感も思い出す。
「その人がいた病室にね、さっきイサがいたんだけど、イサの友達だったのかな?」
なんとなしに彼女は尋ねたのだが、心当たりがあったヒロは苦い表情で呟く。
「……イサ、まだ引きずってんのか」
「えっ、あの患者さんのことヒロは知ってるの!?」
意外そうに驚いたリンへ、彼は一度頷いて話を繋げた。
「あの病室に入院してた患者はウナテっていう名前でな、だいぶ面倒な症状でシノでも手の施しようがなかったんだ。確か……リンが、この部屋に初めて本を借りに来た頃には、もう……」
「……そう、なんだ」
少女はしょんぼりする。ウナテという名の患者は、リンへ本を渡した後、そう時期を置かずに亡くなったらしい。
(知らなかった……)
恩人の死を知らず呑気に暮らしていたことに、彼女は寂しさと罪悪感を感じてしまう。
ヒロは三白眼を細め、過去を回想しながら台詞を続けた。
「ずいぶんイサが気に入ってて、しばらく一緒にイサの部屋に住んでたんだぞ。彼女ってヤツだな」
リンは病室にいたイサの態度を思い出す。彼は一人でじっとしているだけに見えたが、それでいて退屈を持て余しているわけでもなく、当初は少女が話しかけても素っ気ない対応をしていた。
(好きな人のこと、思い出してたのかな)
ヒロは持ったままだった本を目の前にかざすと、改めて表紙と裏表紙を確認して口を開いた。
「この本、イサが知らないならシノが買ってきてウナテに渡したんじゃねぇかな。シノは必要ないだろうし、リンがもらっとけよ」
彼はリンへ本を差し出す。少女は本を受け取ると、新たな気持ちで力強く抱きしめた。
「……うん! 大事にする!」
今は亡き恩人から渡された思い出の本。そう考えると、もう二度と無くしてはいけないという覚悟がリンの心に湧いてくる。
一方、手ぶらになったヒロはソファに白い紙きれが落ちているのに気が付いた。
「……お? なんだこりゃ?」
彼はそれを拾い上げる。落ちていたのは手のひらより小さめの長方形の紙。上方に穴が開いており、緑色のリボンが結び付けられている。
紙きれの正体を知っているリンは明るい顔で答えを告げた。
「あ、これ、栞だよ。この本をもらった時、ページの最後に挟まってたの」
「俺がめくった時に落ちちまったのか」
言って、ヒロは栞をリンへ返す。改めて栞を眺めた彼女は、栞に書かれた文字を確認しつつ疑問を口にした。
「ねぇヒロ。この栞、元々は図鑑の付録みたいなんだけど、この図鑑って知ってる?」
少女はヒロへ栞を示す。そこには植物図鑑というタイトルが大きく表記されており、草花の写真もいくつか載っていた。
再び栞を受け取ったヒロはそれをクルクル回転させて答えを探る。
「植物図鑑、ねぇ」
「私、この図鑑読んだことなくて。読んでみたいなってずっと思ってたの」
リンはワクワクした様子になっていた。少女は栞に書かれた図鑑を何度かヒロの図書室で探していたのだが、同じ本は見つからなかったのだ。
(別の植物図鑑は何冊か見つけたんだけど、栞の植物図鑑も読んでみたいんだよね)
恐らく、内容は他の植物図鑑と大差ないのかもしれないが、見つからないと気になるのが人の性だ。
図書室の本を把握しているヒロに聞けば分かるかとリンは考えたのだが、対するヒロは難し気な形相で栞を撫でていた。
「……この図鑑、点字に対応してるヤツっぽいな」
「点字?」
想定外な一言にリンは目を丸くした。ヒロは少女へ栞の角を示す。
「ほら、ここにデコボコがあるだろ? 点字で植物図鑑って書いてあるんだ」
「へぇー……」
リンは栞にデコボコがあるのは知っていたが、それに意味があるとは思ってもいなかった。
感心している少女を余所にヒロは推理を並べていく。
「栞に点字が打ってあるってことは、図鑑も点字に対応してんだろうけど……そんな図鑑、図書室になかったはずだけどな……?」
しばし彼は首を捻っていたが、そう間を置かず予測を導き出した。
「たぶん、この図鑑もシノが買ったヤツじゃねぇか? で、その付録の栞をウナテが見つけて使ってたんだろ」
「なるほど……」
納得したリンは深く頷く。ウナテという患者は顔に大きな目隠しをしていたのだから、そんな彼女のためにシノが点字に対応した本を買ったというのは有り得る流れに思えた。
つまり、目的の図鑑はシノの部屋にある。答えにたどり着いた少女だが、それと同時に唸ってしまう。
(シノの部屋の本って持ち出し禁止だから、見せてもらえなさそう……)
気難しいシノは自分の所有物を他人に触られるのを嫌がる。きっと図鑑を見せて欲しいと言っても断られるだろう。
再度ヒロから栞を返されたリンは困り顔のままそれを本へ挟み直した。彼女は心の片隅で諦めかけたが、ふと記憶の中に光を見つけ瞳を輝かせる。
(あ……そういえば……!)
図鑑がシノの部屋にあるというキーワードを手に入れたことで、リンの頭には一つの可能性が浮かんでいた。
ヒロに礼を言って退室したリンは、再度シノの部屋を訪れた。向かうのは先ほど行った病棟区域とは別方向の、自然区域と呼ばれるエリアだ。
草原に出来上がった歩道を通り、一直線にリンがやってきたのは荒れ果てた畑。元はプチトマトが育てられていたらしい畝を横切り少女は古びた小屋にたどり着いた。
(ここにも確か、本があったような……)
この小屋は農具を仕舞うためのものだが、植物に関する本も置かれているのをリンは知っていた。
意識して見ていなかったが、もしかしたらその中に探していた図鑑があったのではないか。そう思うと居ても立ってもいられず、少女はさっそく小屋の扉を開ける。長く使用されていない扉は鈍い音を立てて空間を繋げ、閉ざされていた埃っぽい室内を露にさせた。
ギシギシ鳴る床を気にしつつリンは小屋の中を進む。奥に備え付けられた棚には、記憶の通り複数の本が並んでいた。
(あ! あった!)
棚に栞のものと同じ図鑑を見つけ、彼女の表情はパッと明るくなる。達成感と喜びが合わさり、自然と少女の動きは軽快になった。
リンは興奮気味に棚へ手を伸ばし、植物図鑑を取り出す。じっくりと表紙を眺め、それが目的の本なのに確信を持つと、少女はゆっくりページをめくった。
「わっ」
そして、現れたものを見つけて反射的に声を上げてしまう。数秒彼女は固まっていたが、やがて目の前の光景を理解すると不可解そうに呟いた。
「何、これ……?」
リンが見下ろしている植物図鑑。それは彼女が知っている本とは大きく装いが異なっていた。
図鑑はページの中央部分が雑に切り抜かれていたのだ。それも一枚ではなく複数のページで、まるで中心に穴が開いているような有様になっている。そして、その穴の中には金色の棒状の物体がひっそり転がっていた。
困惑しながらもリンは小さな棒を取り出す。よく見ればそれは鍵で、頭の部分にはハートの形をした桃色の宝石がはめ込まれている。少女はまじまじと鍵を見つめると、浅く息を吐き出した。
(綺麗……どこの鍵だろ?)
鍵というのは扉を開けるために存在する。この鍵もきっと館のどこかで使用するのだろうが、保護者達がこんな鍵を持っているのは見たことが無かった。
(そもそも、なんで図鑑の中に鍵があるの?)
リンは不思議そうに首を傾げる。この小屋を使用している可能性が最も高いのはシノ。図鑑を読んでいた可能性が高いのはウナテという名の女性。だが両者共に、本の中心を切り刻み、そこに鍵をしまう必要があるようには思えない。
「うーん……?」
薄暗い小屋の中、小さな鍵を見つめてリンは考え込む。隠されていた金色のそれは微かな光を反射させ、少女の手の中で輝いていた。
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