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スタジオジブリ『君たちはどう生きるか』感想と蛇足

きみたちはどう生きるかの感想は二つのパートに分けて話したい。

①本作品の伝えたかったこと
②宮崎駿のファンタジー

この2点に分けて話すことが非常に重要なんじゃないかなと私は思う。
この2つを混同して今回の物語について振り返ろうとするとお互いが干渉し合ってお互いの本質に辿り着けない。
だからこそこの2つはあえて切り分けて別個に話そうと思う。

はじめに。


まずはじめに、スタジオジブリの『君たちはどう生きるか』は原作を読んだ宮崎駿のオリジナルストーリーであることを念頭に置いておくべきだ。
パンフレットを読んだ方は既知の事実だと思うが、本作品は吉野源三郎の『きみたちはどう生きるか』を映画化したものではなく、正しくは『きみたちはどう生きるかを読んだ宮崎駿が描いた叙述的ファンタジー』である。

①本作品で宮崎駿(スタジオジブリ)が伝えたかったこと

本作品は美しく摩訶不思議なファンタジーで彩られているものの、メッセージは一貫して不変だ。

きみたちはどんな状況下であっても考えることをやめてはいけない。
たとえそれが理不尽で恐ろしく、摩訶不思議な世界であったとしても。
世界から学び、自ら考え、自ら選択、決断せよ。

これこそが今回の作品で一番宮崎駿が伝えたかったことではないだろうか?

これは本作品の主人公である眞人の行動が全てを表していると思う。

継母となる夏子や周囲の環境に対して全く興味を示さない眞人は大叔父様を巡る旅の道中でどんどん変化していく。

眞人で最も印象的だったシーンがこちら。

夏子が塔に纏わる諸々の逸話を語ったのち、『塔に近寄ってはなりませんよ』と眞人に忠告する。
これに対して眞人は『はい。(お茶)ごちそうさまでした。』と返す。

なんでもないワンシーンだったが、ここで私は眞人の強烈な拒絶の意志を感じた。
その後も夏子は悪阻に苦しみながらも幾度か眞人と会話することを望むが眞人の夏子に対する態度は一環として変わらない。

周りに興味を持たず、学ぼうともせず自分が何かを決断することを放棄してしまった眞人。

そんな眞人は青鷺男から始まる壮大なファンタジーの中で人に分からないことを聞き、助けてもらいながら重要な決断を自分でしていく。

少年はこのファンタジー通してまさに『自分で生きること』を始めた

日々変化し、インターネットの普及で自らで考え、決断し行動に移す機会が減ってしまった人類に対しての警鐘とも呼べるこのメッセージ。

受け取るか受け取らないかもまた鑑賞者である私たちの手に委ねられている。

まさに『きみたちはどう生きるか』だ。

②宮崎駿のファンタジー


今回の作品、みているだけで懐かしくなってしまうのは私だけだろうか。
劇中何度も『あっ。』と思うシーンがあった。でもそれは『スタジオジブリのあのシーンに酷似している』と思って『あっ』となったわけではない。
スタジオジブリが描きたくて描いてきた『要素』が随所に散りばめられており、すでに私は宮崎駿が、スタジオジブリが愛してやまないものたちに出会っていたのだなという愛おしさに対しての気持ちからだ。

今回の作品、ファンタジーに関してはスタジオジブリ作品の素晴らしい要素が集結しているのもまた見所だ。

自然を自然のまま美しく魅せる描写はもちろんのこと、
『風の谷のナウシカ』
『天空の城のラピュタ』
『となりのトトロ』
『蛍の墓』
『魔女の宅急便』
『おもひでポロポロ』
『紅の豚』
『平成狸合戦ぽんぽこ』
『耳をすませば』
『もののけ姫』
『千と千尋の神隠し』
『ハウルの動く城』
のそれぞれから物語の重要なエッセンスとメッセージ性が抜き出され本作品にこれでもかというほど詰まっていた。

自然を尊敬し、
人を愛し、
摩訶不思議(わからない、説明がつかない)を良しとし、
命を尊ぶスタジオジブリ
だからこそ描き切れたファンタジー。

『意味わからない』で切り捨ててしまうには勿体なさすぎるので、是非是非何度でも劇場に足を運んでスタジオジブリのファンタジーを味わってほしい。

【蛇足】という名の考察


⚠️ 人は理解できないものを目の当たりしたとき、自らが理解できるものと結びつける傾向にある(整合性を取ろうとする)らしいです。
ご理解の上、ご覧ください。

①アーノルド・ベックリン『死の島』と日本の産小屋への考え方

多くの方が『死の島』だ!と気づいたのではないでしょうか?
それくらいベックリンの『死の島』と酷似しているシーンが1箇所ありました。
あの印象的な糸杉の描き方は忘れられないのでピンときた方多そうです。

ちなみに糸杉の花言葉は死・哀悼・絶望です。

夏子が見つかった産屋と呼ばれたあの場所、実は墓場の島であったことに気づいたときは宮崎駿の死生観に少しだけ触れられたきがした。

古来より、産屋は忌避される場所であった。その理由は日本の『産婆(いまでいう助産師さん)』への捉え方を考えるとわかりやすい。
産婆は『あの世から子供を取り上げる』からトリアゲババとも呼ばれて、恐れられ山奥に住んでいることが多かったと言われている。つまり、出産自体があの世とこの世の境目で行われている行為として、墓場の島と産屋を同一視するよう演出されたのではないか。
同様に、キリコさんは『産婆』としての役割を担っていたようにも捉えられる。

同時に、眞人は本気で夏子さんが嫌いだったし、死んで欲しいとまで思っていたんだなとあのシーンでわかる。墓場に行って欲しいと思ってしまうほどに彼にとっては堪え難い言ジッだった。だからこそ夏子さんが森にフラフラと消えていく様子を見かけても不審に思わなかった(そもそも夏子に興味なかったため不審という感情も芽生えなかった)し、追いかけもしなかったんだなと納得。そして同様に夏子も新しい環境に馴染んでくれない眞人の死を意識するほどに嫌っていたことが印象づけられたシーンだった。

②ジョージ・フレデリック・ワッツの『ミノタウロス』と『希望』




宮崎駿監督が絵画にどれだけ影響を受けているのかは定かではないが、今回の作品見ている中でこの2つの絵画も連想したことはぜひ書き留めておきたい。

まずは『希望』から。


先述した産小屋のシーンで紙吹雪によって夏子も眞人もミイラのように覆われるシーンがある。
そこでジョージ・フレデリック・ワッツの『希望』を思い出した。
地球儀のようなものの上で微かな音に耳を澄ます少女。痛々しい静寂と現実が彼女を包み込んでいるかもしれないその状況下でも彼女はどこかうっとりとした表情で音に聞き入っている。
産小屋のシーンの夏子と眞人は彼女に似ている。
微かな2人の答えを探してもがく。
生きるのをやめない。
そんな人間の強さというか貪欲さを感じた感じたシーンでした。

もう一つご紹介したいのが『ミノタウロス』。この作品はマイナーかもしれませんが私のお気に入りです。


何気なく握り殺した小鳥の死骸を握ったまま、遥か彼方に視線を投げるミノタウロス。
自身の野蛮さ残虐さを憂いているのか、
それとも幽閉された島から早く出たいと願っているのか。。
現在まで不思議な魅力で多くの鑑賞者を惹きつける一枚でもあります。

この名画と似ているなと感じたシーンは物語終盤でオウム王子と大叔父様が交渉をするシーン。

ミノタウロスの視線の先にある漠然とした不安、焦燥とオウム王子と大叔父様が抱えるあの世界の行末の不透明さ、2人の不安が重なりました。

③青鷺男とは


結局あいつなんだったんだ?となりかねないのが青鷺男。
個人的には『星の王子様』のキツネのような存在であり、嘘や想像の具現化であると考えます。
実際のところ、青鷺は眞人が嫌いながらも望んでいる友達の姿ではないでしょうか。

青鷺の存在についてはまだ深く考えられていないのでまた後日書くかもしれませんが、そこまで深く考えるべき存在なのか疑問です。

③13個の積み木



13個の白無垢の積み木。
13個の宮崎駿作品を表しているのでしょう。
俺(宮崎駿)の功績はどうでもいいから、新たな世界を作ってくれ!という宮崎駿の意志
色んな意見ありますが、個人的に気に入っているのはこの説です。

④7人のおばちゃんたち



白雪姫オマージュの7人の小人かなと。
白雪姫は家の地を継ぐものたち。といったところでしょうか?
可愛い。


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