環状線

電車から降りることができない。
多分ここは山手線だと思う。さっきおんなじ景色を見たような気もする。
わたしは、ドア付近の椅子に腰掛けていて、どこへ向かおうとも思っていない。ただ、どういうわけか降りるのが億劫で、それでもう何周もしている。
乗った時のことは、よく覚えていない。

私は思い出そうとする。だけどその記憶の糸を手繰り寄せようとすると、全く関係のないものばかり、次から次へと私の眼裏に浮かび上がってくる。私はそれを、ひとつひとつ眺めて、そうこうしているうちに山手線を何周も、何周もしている。

回想という言葉には、「回す」という文字がある。私にとっては、思い出すことは回すこと。だから思い出すのには、始まりも終わりもない、丸いもののほうがいい。レコードもDVDも、思い出すのに向いている。回すことができるなら、大きさはなんでも良くて、だからたとえばそれは山手線とかでもいいのだ。

山手線から降りることができない。思い出を何度も何度も回すたび、この電車が加速しているような気がするのは、多分私の気のせいなんだろう。

「どうして、思い出してばかりなの?」

あの人は私にそう言っていた。そうだ、あの人と一緒に、私は山手線に乗ったんだった。どこへ行ったのだろう。

「山手線って、ずっと乗ってたら怒られるのかな」

夜行バスで東京に着くと、だいたい5時半くらいで、ほとんどの店は閉まっていて、電車くらいしか動いているものがないのだ。
ひっそりとした街並みの中に、電車の音だけが寝息みたいに響いていた。
例えば暖を取るために、山手線を3周したら、3周分のお金を払わなければいけないのだろうか、とか考えている私に、気づいていたのかどうかわからないが、あの人はそう言った。そう言って笑いながら、私をここまで連れてきた。

あの人が好きだった。
自由なところ、屈託のないところ、健やかなところ、あの人のいる景色全部が、好きで好きでたまらなかった。
美術館が開く時間になるまで、ずっと乗ってようよ、とあの人は言った。怒られそうだと思ったけど、それ以上に私は、あの人と一緒にずっと山手線に乗っていたかったから、だから頷いた。

美術館で観た絵よりも、あの人の横顔の方がずっとずっと鮮やかに見えていた、なんて、そんなことは本人には言えないし、言うすべもない。

それで、気がついたらまた山手線に乗っていたような気がする。

あの人は、右手に小さいホクロが二つある。一つは小指の付け根で、もう一つは手の甲の、手首につながる血管のそば。あの人の右側に座りながら、私はあの人の手を見ていた。
なにか、たくさんの話を、わたしやあの人や、共通の知り合いの誰かや、わたしやあの人に関わりの深いさまざまな物事についての、たくさんの話をしたような気がするけど、もうほとんど覚えていない。
3周なんかじゃ、あれだけの話はできないような気がする。
わたしは山手線に、もしかしてずっと乗っているんだろうか。

車両の中には誰もいない。どうして今まで気がつかなかったんだろう。次の車両に続くドアを覗き込むと、やっぱりそこには誰もいないのだった。あの人はどこへいったのだろう?
思い出そうとすると、また関係のない記憶が、次から次へと溢れてくる。

会うといつも、香水の匂いに混じって、古い紙の匂いがした。抱きすくめられるとあの人の匂いがよくわかった。だけど香水の匂いを思い出そうとしても、それがどんな香りだったか、少しも思い出せない。

どこへ行くのだろう、と思いかけたけれど、これは環状線なのだからどこへも行かないのだ。どこへ行くつもりもない私にはちょうどいいような気もした。

池袋の表示が一瞬見えて、遠ざかっていった。そういえば、一緒に水族館に行ったことがあった。クラゲの水槽の前から動かない私を、半ば呆れたように見て、だけど笑っていた。水族館の照明の薄明かりに照らされたあの人の顔は、この世で1番綺麗に見えた。

夢を、見ているんだろうか。そしてその夢の中で、私は私の記憶をかえすがえす眺めては嘆息しているのだろうか。どうして降りられないのだろう。あの人と一緒に乗ったと思っていたけれど、違うような気もする。
夢を見ているんだろう。あの人がここにいるはずがないから。

「どうして、思い出してばかりなの?」

どうして、思い出してばかりなんだろう。私が答えに窮しているうちに、その人はいなくなってしまった。私の目の前から。
私にそう言ったとき、あの人は苛立っているように見えた。どうして苛立っているのか、私にはわからなかった。

ふと目線を左にやると、ホクロを2つ備えた美しい手が見えた。驚いてそのまま目線を上にやると、それ以外の部位は、ぼんやりとぼやけてしまってよく見えないのだった。ああ、やっぱりこれは夢だと、私ははっきりと思う。

どうして思い出してばかりだったのかといえば、怖かったからだ。忘れて、失ってしまうのが。

「今もそうなの?」

え、の口のまま、私は固まった。

「もういないのに、失うのが怖いの?」

私は声の主に焦点を合わせられないまま答えた。

「忘れたら、あなたを思い出すこともできなくなってしまうから」
「ふーん。そうなの」

興味がなさそうな声色で、その人は言った。

「でも、今だって、思い出せないでしょう?だからこんなに朧げなんでしょう?」

優しい声色だったけど、私のことを責めているんだと思った。

「どうして、思い出せないんだと思う?」
「わからない」

本当にわからなかったから、そう答えた。確かに仮に夢だったとしても、あの人の顔をはっきりと見ることができないのは、どうしてなんだろう。

「山手線、ずっと乗ってたかった?」

どうしてそんなことを聞くんだろうと思いながら、私は頷いた。ずっと乗っていたかった。たとえ許されないとしても。

「あなたは?」
「ずっと、乗ってたかったよ」

その人はこともなげにそう言った。そう言うや否や、その人の輪郭がぐにゃりとねじ曲がり、滲んだ絵の具のように背景と混ざり始めた。
夢だ、と思った。あの人がそんなことを、言うはずがないのだ。

「ずっと乗ってたかった。あなたを独占したかった、ここから出したくなかった」

そう思っていたのは、他でもない私であって、あの人ではない。

私はもう一度、思い出そうとする。本当はどんな人だったか。だけど私のその試みに連動するように、眼前のその人が、またぐにゃりと大きく歪む。
どうして、思い出せないのだろう。

「失ってるんだよ」

視界のなかのその人の顔が、形をとって私をとらえ、私は射すくめられたように動けなくなる。そういえば、こんな顔だったような気もするし、もっと違う顔だったような気もする。

「思い出そうとするのは、もうここにないからでしょう。目の前にある物事は、思い出したりできない。なのに、会って、そばにいるのに、ここにいるのに、思い出してばっかり」

感情の読み取れない声だったけど、責められているんだとわかった。私の意識は半ばはっきりしてきて、別れる間際に、そう言われたんだったと思い出した。

相変わらず、電車は止まらなかった。
私は目を閉じる。こんな断片的なことじゃなくて、もっと詳しく、思い出さなければどうしようもない。

「困るんだよね」
「えっ」

目の前に、駅員らしい制服を纏った男性が立っていた。

「電車ってね、乗った分だけお金がかかるんだよ。たまにいるんだけどさ。乗り間違えたからって途中で降りて払わないのとかも、本当はダメなんだよ」

子供に言い聞かせるみたいな口調で、駅員は言った。というか、その実、子供だったのではなかったか。

「まあ、君たちまだ高校生みたいだし、今回は大目に見るけどさ」

そうだった、高校生だった、あの時は。

「ごめんなさい」

高校の制服を見に纏ったあの人が、私の左手を取りながら謝っていた。その容貌はやはりおぼろげで、よく見えない。でも左手から伝わってくるその温度を、私はよく知っている。

「怒られちゃった。帰ろっか」

帰りたくなかった。家にも学校にも。かと言ってどこかに行きたいわけでもなかった。ただずっと一緒にいたいと思っていた。この人と一緒に逃げ出したいと思っていた。受験からも将来からも、自分自身の人生からも。

この人はそうではないんだと、気がついたのはそれよりずっとずっと後のことで、でもその後も私はずっと、あの時の山手線を思い出し続けていた。

「本当にちゃんと考えてる?これからのこと」

いつからかそんなふうに、呆れられるようになってからも、私はずっとあの日の山手線の中にいた。そこにいたのはもはやあの人自身ではなかった。

「失ってるんだよ」

その意味を、私はようやく理解する。あの人のそばにいながら、私はずっとあの人との過去を見ていた。そうやって少しずつあの人を失っていたんだ。あの人はきっと、それに気がついていて、だからいなくなってしまった。
懐古は後悔に変わって、だから私は尚更ここから降りられなくなってしまったのだ。

「なあにその顔。そんなにずっと乗ってたかった?」

制服姿のその人が言う。声色で、笑っているんだとわかる。ずっとそばにいてほしいと思う。親にも先生にも社会にも、誰にも知られずに、この人をずっと隠しておける場所はないだろうか。当時から私はそんなことばかり考えていた。

「心配しなくても、降りてもずっと一緒だよ」

私は泣き出しそうになりながら頷く。でも嘘だったじゃないか。そばにいてくれるって言ったのに、もうどこにもいないじゃないか。そのせいで私は、あなたの残骸ばかりを掻き集めて、こんなふうにずっと、環状線を何周もする羽目になっているんじゃないか。
どうしようもないくらい好きだったのに、どうしてもうここにいないのだろう。

降りなければいけない、と私は思う。この人と一緒にではなく、一人きりで、ここから降りなければいけない。

「どうしたの?」

相変わらず顔はよく見えない。柔らかいその人の手を、私はそっと振り解く。思い出の中のその人が怪訝そうにしている。ずっと一緒にいるためには、ずっとこの人のいまを見ていなければならなかった。あの時はこんなふうだったけれど、いまはどこで何をしているんだろう。

「ごめん、私もう行かなきゃ」
「行くってどこに?」
「山手線から降りないといけないの」
「知ってるよ、だから一緒に帰ろうって」
「それじゃダメなの」
「どうして?」
「どうしても、一人で降りなきゃいけないの」
「なにそれ」
「ごめん」
「まあ、いいや。またね」
「また…?」
「また、会うでしょ?」
「…うん、でも、全然違う人かも」
「なにそれ」
「私が全然違ってても、また会ってくれる?」
「会うよ」
「…ありがとう」

夢の中で問答を繰り返しながら、私の微睡はさめていく。

「困るんですよね、お客さん」

山手線は終電の時、どこに停まるんだろう。

「もう終点だし、ていうかあなた、ずっと乗ってるでしょう。電車賃って、乗った分だけかかるんですよ」

ぼんやりした視界の中で、似たような説教をいつだかもされたなと思う。もう大人だから、きちんと払って帰ろう、いくらになるかわからないけれど。

どこへも行く宛はないけど、でも、会いたい、と思う。もう一度、今ここにいるあの人に会ってみたい。

私は山手線を降りる。たったひとりで。

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