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SPAC『マハーバーラタ』@行幸通りを見て

SPAC『マハーバーラタ』の千秋楽を見ました。それにつけて、自分がどのような演劇の作り手にならねばならないと考えたのか、この感興の薄れる前に書き残しておかねばならない、という衝動に駆られ、この文章を書き始めます。

多くの感想にあるように、「多幸感」という言葉に、この作品がどのように観客の生に関わったかが集約されるような上演でした。見終わった後、東京駅で電車に乗るまでずっとニコニコしていました。この多幸感は、今年のふじのくに⇄せかい演劇祭で見た『パンソリ群唱 ~済州島  神の歌』を見終わったときの感覚にも似通っていました。この幸せ、今のところ僕の人生の中でこの二回しか感じたことのない幸せとは、何の幸せなのかということを考えておきたいのです。

それは、「人間はともに生きていくことができるという喜び」なのではなかろうかと思います。『マハーバーラタ ~ナラ王の伝説~』は、非常に筋のシンプルな話です。ナラとダマヤンティーが受難し、様々な神話的苦難を乗り越えて再会を果たすという貴種流離譚として話の筋は説明されます。それだけを見れば、劇団四季の『ライオンキング』だって同じはずなのですが、僕の心がSPACには動かされ、四季には動かされなかったのはなぜなのだか考えると、それは人間の生を言祝ぐ俳優そのものが集団として祝福をうけているかどうか、という違いにあるように思われます。SPACの作品ではおそらくほとんどの体の動きやセリフの発し方は演出によって制約されており、そこに俳優の自由はないのではないかと思われます。しかし、私にはその中にいる俳優たちが窮屈そうには見えません。むしろ、皆がこの祝祭の参加者として、その実現に向けて自分に与えられた役割を果たすことに喜びを感じている様子すら感じます。それは、声や体という表面的な自由のレイヤーの一つ上にある、人間としての自由の中でこの価値ある集団と上演の一部となる選択をしたことに対する責任と誇りを感じているからではないかと思われます。私は、一演出家としてそのように専心できる環境を作ることの難しさを知っていますから、作品そのものの技芸以上に、それを規定するものであるこの集団性を生み出す文化に驚き、あこがれるものがあります。そのような、それ自身が集団的祝福を受けた体たちが、身体的制約と対立せずむしろ重なるような形で喜びを漏れ出させ、祝祭の中心となっているのです。そして、もちろんそこには観客と祝祭の主催者をつなぐ演劇としての技量があるからこそ、観客もまたその喜びの一部になり、集団の喜びが共有されます。集団の喜びとはつまり、「人間はともに生きていける」という喜びであり、異質な他者を排除せずに(演出の宮城聰さんがよく言うところの)「同じ盆の上に乗って」いられる夢を見ることだと思います。これが多幸感の源泉なのではないでしょうか。

この上演は、「演劇は必要か?」というコロナ禍以降の問いに対する一つの回答になっていたように思われます。宮城さんは「演劇とは何か」と題した文章の中で、演劇とは「言葉」「肉体」「集団」という、人間が逃れられない3つの現実を引き受けた芸術であり、その現実から逃げずに作られた演劇(夢)だけが現実への効力を持つ、と語っており、僕もまたそれに納得しています。「人間はともに生きていける」という夢は演劇が見せることのできる夢のうちのひとつにすぎません。しかし、演劇が集団という現実と向き合い引き受けるものである以上、その夢は演劇がもっとも強く見せることができる・見せるべきものなのではないかと思います。「現実への効力」とは言い換えるなら「人間が『よく生きる』ことに貢献する力」でしょう。人間が集団として、「よく生きる」とはいかなることかを経験させてくれる力を演劇は持っています。

このような作品を、演劇も観ないしSPACを聞いたこともない人が(驚くべきことに無料で!)観られるような環境で上演したことには大きな意義があったと思います。僕は今回の上演を見て、「これがないと生きられない」という感覚を得ました。「これ」というのは演劇のことではなく、「生きていける」という楽観性・安心感です。このように世界の見方をわずかなりとも変えさせることを意図し、演劇が世界にとって必要な物であると主張したいならば、演劇はどんどん劇場を出る必要があるでしょう。そこには、劇場よりもはるかに厳しい現実があります。こちらに対して何も好意的でない衆目に耐え、演劇好きや演劇人たちにだけでなく、社会にとって演劇が必要であるかどうかを問いかける勇気が必要です。僕もまた、そのための準備を、少しずつですが進めています。

ここから人間の条件という団体が何をやっていくか、ということを考えています。人間の条件が目指しているもの、団体の存立目標は「観客との劇的時間」です。そして、それを世界レベルで実現することです。「世界レベル」というのはつまり、人種や言語を超えて「劇」を立ち上げられることです。そのために人間の条件は作品の粗製濫造を行わないようにします。一つ一つの作品が、目指すレベルに達するように、丹精を込めて作品を作ります。幸い、そのレベルというものがいかなるものかというのは先人たちが示してくれているので、そことの乖離に苦しむことはあれど、道に迷うことはありません。

そしてもう一つ、人間の条件は「共に生きていける」というときの「共に」について考えていきます。劇場の外に出れば劇場に来ない人々と出会うことができます。東京を出れば、東京にいない人々に出会うことができます。日本を出れば日本にいない人々と出会うことができます。しかし、日本にいて、「共に生きる」ことの輪から日常的に外されている人々がいるはずです。そのような人々と出会い、そのような人々がともに「盆に乗る」ための場として演劇活動をしていければと思っています。

幸い、今回の上演のおかげで、いまは自分の仕事として演劇を選択してよかったと思えています。もうしばらく(あと何十年か?)この道で頑張ります。

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