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7月26日

9時。稽古から直接向かった重度訪問介護の夜勤を終える。利用者さんの家をでると、気持ちのいい青空だった。

急がねば追悼式に間に合わない、と思っていたらそもそも追悼式への一般参加はできないということを知る。

おおらかな気持ちで向かうことに決め、乗換駅である中野で花屋を探す。

10時前だったので、小さな花屋しか開いていなかった。商店街の端の方にある間口の狭い花屋さんで、準備中のような雰囲気もあったが、声をかけると快く応じてくれた。「弔問用の花束を」とか、「献花のための花束を」とか、どのように言えば最適なのか悩んだ末、「事故で亡くなった方に渡す花束を」と、店員の女性にお願いした。こういうのはもろもろ知っているプロにお任せしたほうがいい。「事件で」と言うことがなんとなく憚られ、「事故で」と言ってしまった。適切な花の種類に違いがなければいいが。迷いなく店先の花を摘み、束を作っていく店員さんの手つきを見ながら、そういえば花というものは華やかな場だけでなく弔いの場にも捧げられるのだな、という当たり前のことを思い出し、その両義性の不思議さを思っていた。生の両端に関わり続ける花屋という仕事について、彼女は何を思いながら花を摘んでいるのだろうか。私は尊い仕事だと思った。予算に対して想定していたものよりもふくよかな花束を受け取り、サービスしてくれたのかな、と思いながら、夏の盛りを告げる暑さの道を辿る。青山フラワーマーケットが開いていない時間でよかった。

電車まで時間があったので、トイレで着替えることにする。室内肉体労働である訪問介護のためのだらしない服を脱ぎ、スラックスとワイシャツを身に着ける。靴は稽古に向かうときから革靴を履いておいた。トイレの床に足をつけると、靴下越しにもべたつきが伝わってくる。俺の人生こんな感じ、という気分がした。慣れないなりに念入りに服装の用意をしてきたはずだったが、ベルトを忘れていた。俺の人生ずっとこんな感じ。スーツは5年前に親にもらったお金で買ったリクルートスーツだし、ワイシャツは結婚前の両家顔合わせの当日に急いで買ったものだった。スーツなんて衣裳として着た数の方が、それ以外として着た数よりよほど多い。ジャケットとネクタイは相模湖駅で着ることにした。

中央線に乗ると、窓から古巣の座・高円寺が見えた。「鳥もとまる劇場」というコピーがみえる。確かに、「鳥もとまらない劇場」よりはそちらの方がいい。高尾駅で乗り換える。窓の外はもう山の斜面ばかりである。サマーキャンプに行くらしい小学生たちが、お行儀よく座っていた。

相模湖駅で降りると既に目当てのバスが停まっている。東京のバスとは逆、車体の真ん中から乗り込み、最後部の座席に座る。窓の外を眺めると、「ようこそ SAGAMIKO」というゲートの下に高くて3階建ての建物たちが並んでいる。ここに生まれ育つ人々のことを思う。その中にいた植松聖のことも。少しだけ寒気がした。

曲がりくねった山道を抜け、まばらに住宅の散らばる中に、津久井やまゆり園はある。今もここで55人の人々が暮らしている。緑多く人気のない道の中に突然現れた、礼服に身を包んだ人々、報道陣、テントが溢れる光景に少しだけぎょっとする。救急車と報道陣が立ち並ぶ当時の光景が脳裏にあったからだろう。追悼式に参加した人の献花が途切れる合間に、自分の花を碑に捧げ、礼をする。「冥福を祈る」という言葉に実感を持てない私の中にあったのは、「作品化するということでしかあなた方のことを想い、社会に働きかけることのできない私を許してほしいです。私にできるだけのことはします」という思いだった。

二人の新聞記者からインタビューを受けた。どのような作品を作るのかを答えると「つまり共生を目指す物語ということですか?」と聞かれ、言葉に詰まる。「共生」という言葉をこの事象に当てはめるのは傲慢ではないかという思いが頭をよぎる。「共生」という言葉は双方向性を含んでいる。互いが互いの生を尊重し、なんとか互いを排除せずに生きることをそう言うのではないか。しかしこの事件については、我々マジョリティの側が、言葉による自己主張のできぬ圧倒的に弱い立場に置かれた彼らを切り捨てただけだ。であれば、それを乗り越える責を負うのは私たちの側だけではないか。行うべきは彼らの生を軽んじたことへの建設的贖罪だと思う。その先にしか「共に生きる」ことはない。

献花が行われる様子をしばらく見つめる。私たちが事件の何を振り返り、どうするべきかについて私が考えたことは作品を通して伝えるし、言葉で十分な部分は言葉にしていくつもりだ。ここではただ、考えたことではなくまさにこの私が感じたことだけを書き留めておきたい。

施設の裏口のあたりを眺めて近くのレストランに入る。カツカレーが1200円で、正直ちょっと高かった。

バスは1時間に1本しかなく、次のバスが来るまで再び碑の前に佇む。さっきは人が多くて碑の前に留まれなかったので、再度碑に書かれた文章を読みにいく。報道に乗らない被害者の本名がいくつか刻まれていることに、僅かばかりの安心を覚える。彼らは「殺された知的障害者」ではなく名前を持った彼らその人なのであり、ここに生きて死んだことが、ずっと思い出されてほしい。せめてこの日だけでも。

報道で見かけた被害者家族の方や、重度障害を持つ参議院議員の方も見かける。

炎天下に30分ほど佇んだ後、バスに乗って帰路につく。


小学生のころの記憶をいくつか思い出す。

知的障害を持つクラスメイトのこと。あの頃は「知恵遅れ」と呼ばれていた。私たちは彼のことを当たり前に受け入れていた。彼が私たちとどこかで違うことは認識していたが、「他者」ではなく、クラスという円の内側にともに存在していた。言葉でコミュニケーションが取れなくても、「変なやつ」とは思っていなかった。トーンの高い笑い声と可愛げのある笑顔が私の中に残っている。そう思いたい私が作り上げた幻想でなければ、だが。その後私は中高一貫の進学校に進み、この事件に向き合うまで、知的障害のある人と関わる機会は一度たりともなかった。彼はどこに行ったのだろう?あるいはどこに連れて行かれたのだろう?

ある日、先生が「『ガイジ』という言葉について知っていますか?」と問いかけた。私は知らなかった。先生は、これは「障害児」を略した言葉で、彼らを馬鹿にするものだ、という話をした。ふーんそんなものか、と私は思った。何ヶ月か経って、再び先生が同じ問いかけをするプリントを配った。今になってみれば、おそらく誰かがその言葉を使っていて、問題化したのだろうとわかる。そしておそらくその対象は彼だったのだろう。私は「よくわからないけど使わないようにします」と書いた。生徒の回答を読んだ先生が、ひどく感情的に、「私このまえ説明したよね?『よくわからないけど使わない』ってなに?どういうこと?」とクラス全体に対して怒っていた。いい先生だったなと思う。自身の感情に訴えて伝えることは教育的ではないかもしれない。しかし、「差別をしないようにしましょう」というお題目の言葉ではない、障害を持つ生徒の痛みに共鳴した個人の怒りは、私の記憶に深く刻まれて、20年弱の時間を生き残っている。

彼とは別の、かなり変わった行動をする女の子がいた。知的障害はなかったと思うが、声もリアクションも大きく、服を着ずに廊下を走ったりするので多くの同級生から「変なやつ」として扱われていた。勉強もできない方だったし、基本的に馬鹿にされていたと思う。加害の責任から逃れるため記憶に蓋がされていて理由はもうあまり覚えていないが、掃除の時間に私はなんの正当性もなく彼女の背中をチョークで汚れた黒板消しで叩いた。彼女の服にはチョークの粉の跡がくっきりと残っていた。おそらくそのリアクションを見て楽しんでいたのだと思う。その悪行が先の先生に知られて呼び出された。私はその先生のことが好きで、先生も私をかわいがってくれていた。彼女はしおらしくしている私に対して怒鳴ったりすることはなかった。ただ、「ガッカリした」と告げた。私は泣いていた。私が先生の立場だったら、この汚い涙を流す少年を殴っていたかもしれない。当時は先生に突き放されてショッキングだったが、殴られなかっただけマシだ。

「他人の痛みを想像できる人間になれ」と言われて育ってきたが、私が真に自分の過ちを心に刻んで行動を変えるのは、他人に痛みを与えて省みない自分を恥じる、その下らない自分の痛みを通じてだったと思う。事件について私が抱える思いも、まさにその形をとっている。彼らを他者化してその生を疎外し省みない私(たち)を深く恥じ、行動を変えるからどうか許してほしい、という思いに、私は動かされている。

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