怠惰な人ほどスピ沼にはまる

どうも雑水です。今日はスピリチュアルにはまる人の特徴を書こうと思います。
題名には怠惰と書いていますが詳しく書くと、考えなくなった人という風に考えています。
それではいつも通りに思ったことを書いていきます。

私のスピリチュアルへの立場

スピリチュアルの批判記事を書いてきていますが、私としてはスピリチュアル否定派ではないです。オカルトもまた否定派ではありませんし、陰謀論も見聞きする分には楽しんでいます。

そもそも私の生い立ちというか、環境を考えれば俗にいうスピリチュアル的な場所だったので否定できないというのもあります。
これは後述します。

とりあえず、スピリチュアルが本来さしていたスピリット(魂、霊性)という目にみえないものというものは肯定派であることは明記しておきます。

スピリチュアリズムの否定

では、私が否定しているスピリチュアルはなにかというと、スピリチュアリズムという分野のものです。心霊主義、そこから派生したいわゆるスピった人々というのが好きではありません。

なぜかというと、まず全体的に浅い。神や幽霊を利用してやろう。そして特別さを求めすぎているということです。

例えば、私は神の声が聞こえる、霊がみえる、感じる…そういったことを話すのが想像しやすいスピった人だと思います。
そして、口をそろえて言うのが
宗教ではない』『信仰はしていない
という二つです。

個人的にいえばですが、スピってる人はその神の宗教としての知識不足信仰心の否定が多いです。
自分の都合がいいところしかななめ読みしていないというか、身についていないというか、全体的にメッキのように薄っぺらいです。

何度かそういう人と話すことがありましたが、だいたい、自分は選ばれたので力がある、代々霊が見える家系でという人がいます。
で、家や個人の宗教を聞くと関連性がなかったり、その力とやらに保証がなかったりします。何代前に誰がいたとかいえなかったり。どうなんでしょうかね、それ。

では私はどうなのか

否定ばかりをしていますが、まず自分の環境を開示した方が公平と思いますので書いていきます。

まず、信仰心。私は信仰心がありますし、信仰している存在もあります。
別に新興宗教とかそういうものではなく、生まれたときから氏子になっているので、氏神への信仰です。
真面目に信仰していますので、自分の宗教観の根幹でもあります。

ちなみに信仰も自分の家としては土地が変わってからですが、四百年以上氏神を信仰しています。

死後の宗教としては、それまでは武士なのもあって、真言宗でしたが、三百年ほど前から、最近の流行りだし真言宗から浄土真宗にしよう!と当時の当主が寺と喧嘩もしていたので、宗派を変えましたが、そこから今日に至るまで同じ寺です。仏教が宗教だとなりますか。

別に特別でもなく、普通な話です。日本は多神教なので。

そして信仰心があるのは特別ではありません。なぜなら、田舎なので。そう、田舎なのです。
スピリチュアルに目覚める人はやたらと都会の人が多いのですが、田舎だと普通なことを特別なんだと思い込んでいたりします。

あと代々の霊が見えるとかいう話だと、何代前までの話ですか?となる。だいたい祖父母とかその前で終わりますからね。

私みたいな先祖もちらほらいます。いや、子孫の私が先祖に似たというのが流れですから、逆かもしれませんね。先祖が変わり者が多くて、質問されたら過程をすっ飛ばして答えをいうので反感とか無茶苦茶くらうとかあって、もめにもめて…結果として歴史の教科書に載っていたりします。大宰府に流されてます。

ああそうでした。自分の先祖に関してですが、頑張れば千年は辿れます。
探すのはわりと簡単で古文書からもですし、登録されているものもありますし。というか、昔の人は子だくさんですので、〇〇家は〇〇の一族で、そこと血縁がある〇〇家の嫁をもらって…みたいに教わるので覚えるようになります。

口伝というか、血がある程度濃くなりすぎないように〇〇家の娘と懇ろになるなとか、あそこの後家は〇〇の血筋だからとか、まぁ、五十年前まで夜這いの風習があったような土地なので自然と頭に入ります。

あとは寝物語として祖父から話を聞くなどしていましたので、先祖が途中で代官所で務めたり、城で務めたり、国司で派遣されたり、右大臣になったりと過去を探れる程度には古い家です。
祖母の家も似たように古いので、縁戚に総理大臣が何人かいたりします。いや、本当にでかい家だったのであっちもあっちで面白い話があるんですが、脱線になるので終わります。
でも、田舎なのでこれも普通です。先祖が平家とか貴族とかの同級生がいたりもしましたし、田舎であれば血統の正当性が地盤を固めるので、発言力が高くなる傾向にあります。

かわりとして役目が多いので、自由がない。跡取りかどうかで負担は変わりますが、そうでなくてもしがらみは多いです。親のしでかしたことが子供、孫にまで行くことも多々あります。

そのため、都会へ行って田舎のこと、自分の家のことを子供に話さないという人が多いのもあるのでしょうが、都会の人は自分のルーツをよく知らない人がいたり、家のあれこれを知らないというのもあります。やたらと出会うスピの人は特別さを出すために色々いってきます。

試しにスピった人と話すとあること

スピってる人は宗教観がごちゃ混ぜであったり、凄く浅い、生きていない教えをこれが秘奥なのですというように話します。
そこを指摘するとなぜか群れて反撃しにきます。びっくりするほど、群れてきます。
え、宗教なんですか?と聞くと全力で否定しますが、やっていることというか、指導者がいて、指導者が役割を任命してその役割を果たせない人や、指摘や否定をする人間を敵としてたたく。

あと、宗教は契約だから縛られるとかいう話をする人もいましたが、思考に縛られていないのは本能で生きている状態なんですけど、どうなんですか。

それと、恋人とか性欲とかの否定か、もしくは心を通わすためにたくさんやるべきだという人もいて、スピというより新興宗教だなと思いました。主教はすぐに、食や性に制限をかけるので、わかりやすいです。

話を聞いて思うのが宗教じゃん。でした。
本当にそういう人多く困るんですが、だいぶ減りました。
今はなんというか瞑想とかカルマ論に流れているような気がします。

なんでも瞑想で治そう。瞑想しかないみたいなのと、よくも悪くも業に縛られていて、自分は苦しいという考えの人が多いような気がします。

確かに瞑想は悪くないかもしれませんが、そもそも瞑想とはなんの目的であるのかということと、そこまで比重を置くものなのか?という疑問があります。

メンタル回復のために服薬や運動、食生活や生活改善をしたうえで、それでもメンタルが回復しないなら瞑想に頼るのはわかりますが、最初から瞑想だ!とするのは何も考えていない、考えるのを放棄した怠惰な人と思います。

スピに沼る理由

理由としては、考えたくないのと、その不思議なもののせいにできるからだと思います。
本当に不思議なんですけど、スピってる人ってあとから自分の首をしめている人しかいないんですよね。
なんというか、スピでお金を稼げているならいいんですけど、だいたいの人が人として失うもの多いような気がします。
友人関係を失ったり、職を失うなど。
あと、同じこと繰り返している人がとても多いです。同じ問題で苦しんだり、もめたり、スピの不思議パワー(笑)と瞑想で治ったんじゃないんかい!とつっこんだこともあります。

あと恋人できないんだね…パワーあっても…と思ったり。

きつい言葉ですが考えていないお花畑脳な方が多いなと思いました。
大学出ていたり、社会人の経験ありますか?
あなたが今息をしているのが現実なんですが、目を閉じてばかりいいんですか?そのまま年を取っていくんですか?もったいないですよ。
スピのパワーで現実を変えれるという人もいますが、なら現実で楽しく生きている姿を見せてください。みせれないことないでしょ?できるといいはるのだから。

スピに沼る人は孤独や自己否定の塊であり、だからこそ現実の自分を考えたくない、自分が悪いのではない。そういう言い訳の連呼で自分を守ろうとしている。

けれども、スピの人の繋がりはやはり浅いので、しばらくすると、敵とか色々ともめだしています。
なんで、そこが未来も見える不思議パワーで見えていないんでしょうね。

何かあれば、試練だとかいうのそもそも宗教からきてるので、スピ沼の人の信条的にどうなんでしょうか。

おわりに

毎度のように書いていますが、楽しむ分には問題ないのですが何事も妄信したり、考えをやめて無心でスピったり占いなどにのめり込むのはよくないことだと思います。
適度なら問題ないのですが、過度な人が多いように思います。

スピに頼る前に病院に行って体を治しましょう
あとは大事なこととして、寝る!食べる!体を動かす!太陽光を浴びろ!
親身になって話を聞いてくれる人がいても、それは他人であり自分じゃないので、まずは自分を最強にしてください。健康で最強なメンタルあれば無敵です。
それができる自分は特別であるとも思えるようになって、自己肯定感も爆上がりなので、脱怠惰な生活から抜けましょう。

比べる前に、自分ができる範囲で健康生活をする!
これを持続できる人の方が楽しく過ごせると私は思います。

以上ここまで記事を読んでいただきありがとうございました。

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