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雑司が谷散人の街道遊歩 0780

日光街道 2日目-02 2019.5.8

草加の代名詞、草加せんべいのルーツは、蒸した米を潰して丸めて干して焼いたもの。
草加周辺の農家で間食として食べられていたが、次第に宿場で旅人向けに売られるようになり、後に野田などの利根川沿いの各地で作られた醤油で味をつけ、今のような姿になったという。

草加せんべい

日光街道旧道左手に東福寺。
草加宿の開祖、大川図書の創建で、図書の墓がある。

東福寺

日光街道旧道左手に草加宿神明庵。
もとは久野家住宅で、江戸末期の築という。
草加宿は明治3年の大火で宿の大半を焼失しており、これを免れた貴重な建物。

神明庵

「奥の細道」では、奥州への旅を思い立った芭蕉が、話に聞く見知らぬ土地を訪ね、もし生きて帰ることができればとかすかな望みをかけて歩くうち、ようやく草加宿に辿り着いたと記される。

芭蕉と草加

日光街道旧道は神明町交差点で県道に合流し、伝右川を渡る。
伝右川は寛永5年に釣上新田(今のさいたま市岩槻区)の伝右衛門が開削したもので、もとは伝右衛門堀と呼ばれた。

伝右川

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