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雑司が谷散人の街道遊歩 0770

日光街道 1日目-06 2019.5.4

吉野通りは山谷堀を渡す吉野橋へ。
今は埋立てられている山谷堀だが、かつては隅田川から新吉原遊郭への水上路として多くの猪牙舟が行き交い、吉原通いを山谷通いとも呼んだ。
明治期以降、花街が新橋などに移るとともに寂れ、山谷堀も昭和初期には埋立てが進んだという。

吉野橋

東浅草1丁目交差点の先に、エスペランサ靴学院。
昭和初期の建物か。

エスペランサ靴学院

吉野通りは山谷地区へ。江戸期から木賃宿の多く集まった場所で、これらが戦後に簡易宿泊施設に変わり、国内でも有数の寄せ場として、山谷の名が知られるようになった。
「ドヤ街」と呼ばれることが多いが、「ドヤ」は「宿(ヤド)」の逆さ言葉。

山谷

吉野通りは泪橋交差点へ。
泪橋は思川に架かっていた橋で、今は川も橋も無い。
この先の小塚原刑場の手前に位置し、罪人と家族らの別れの場として泪橋の名がある。
東海道の鈴ヶ森刑場手前の立会川浜川橋ももとは泪橋で、どちらも刑場由来の橋。
交差点を過ぎると、荒川区。

泪橋

南千住駅手前左手に、都営バスの南千住車庫。
敷地は都電南千住車庫の跡地で、ここまで歩いてきた日光街道こと吉野通りは、都電の走った道筋でもあった。

都営バス南千住車庫

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