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菜根譚でひもとく幸福の定義

世界の片隅から端々まで、人々が一生懸命に追い求めるものがある。それは、多分、幸せだ。料理人も、政治家も、アーティストも、犯罪者でさえも、自分なりの幸せを描いている。

僕はずっと、人を知ることの大切さを直感的に感じていた。それは「人を知る」ということにちょっと苦手意識を持っていたからかもしれない。若い頃の自分は、ちょっと自意識過剰だったと思う。何をやっても大抵のことはうまくいった。いや、うまくいくような気がした。菜根譚には、そんな自分を戒める言葉がたくさんある。そもそものタイトルは「人、常に菜根を咬みうれば、即ち百事なすべし」からきている。つまり「堅くて筋っぽい野菜の根っこを食べるような貧しい生活を経験し、人生の艱難辛苦を乗り越えてきた人は、人生を深く知り、人物に味がある。そのような人が語った処世の知恵噺」ということだ。

僕は、いつからか、幸せって一体何なんだろうと真剣に考えるようになった。感じ方は人それぞれ違う。千差万別だ。相対的なものでもある。誰かと比較して、自分が幸せだと感じることもある。たとえば日本人は日本に生まれただけでも幸運だという。大東亜戦争以降、戦争を経験せず、治安も良くて、餓死することもない。それは世界のそうではない国と比較してのことだ。

一方で、絶対的なものもある。僕の場合は家族だ。彼らのいない世界に生きる意味はないと思っている。昔は、そうではなかったのに、いつの間にか自分以上に大切な存在となっていた。真夜中に海外のゾンビドラマを見ていると恐ろしくなることがある。子どもを失って、たくましく生きる自信が持てない自分がいることに気付くのだ。家族が元気に暮らしている。それだけで幸せなことだ。

しかし時にそれさえ忘れて、高望みをすることもある。いまも、自分のプライベートレストランを作ろうと画策中だ。週に一度は、外食をして、おいしいワインを飲みたくなる。それでも足りない。キャンピングカーを買い、北海道に行きたいと考えている。そうした欲を実現した時に、しあわせだと感じる。実現できなければ幸せになれないとさえ思うこともある。もっと、つつましやかなことの中に本質的な幸福があることはわかっているはずなのに。

結局のところ、しあわせとは何なんだろう?レストランで働いていた時は「食を通じてお客様に幸せを」と言っていた。幸せを「与える」と言うけど、それは可能なのか?その考えこそ、傲慢であり、戒めるべき考えではないのか。今はWEBサービスを通して、スモールビジネスを応援しているが、目指すところはクライアントの収益を上げ、喜んでもらうことだ。それが経済的に日本を豊かにすることに繋がれば良いと思っている。その連鎖は、循環して自分の子どもの幸福にもつながっていくだろう。

しあわせは、人によって違う解釈があって、曖昧な言葉だ。お腹を空かせている子供にとっては、ひとかけらのパンが幸せかもしれない。でも、毎日3食、欠かさず食べている肥満気味の子供にとって、それは日常だ。その子が感じる幸せは、美味しいケーキか、新しいゲームか。それとももっと別のものか。僕には、どちらが良いとは言えない。人の感情はいつも相対的だ。「幸せ」というのはこんなにも幅がある。

僕は考えた。ちゃんと、しあわせを定義できる言葉が必要だった。そうしないと、クライアントに提供するサービスの良しあしがわからなくなる気がした。どこに繋がっているかといえば、誰かの幸せにつながっているべきだからだ。そしてついに、僕は「しあわせ」なるものの尻尾を掴むことができた。

しあわせとは、感謝できる心だ。

日本だけでなく世界中で「いただきます」と言って、食事を始める習慣がある。その心が、幸せの本質なんじゃないかと思う。だから、幸せは「与える」か「与えない」かの問題ではない。自ら感じていくものだ。心理学者のウィリアム・ジェームズはいっていた。「笑うから幸せなのだ」と。最初は違うと思っていた。幸せだから笑うんでしょ。と反発していたが、今はその意味がよくわかる。

ビジネスでもこの本質を忘れると、弊害が起こる。たとえば、ひたすら商品の品質を追求するとする。機能はより優れ、性能は上がり、デザインは美しくなっても、顧客が求めていなければ無意味だ。売れるのは商品が良いからではない。「良さそうに見える」から売れるのだ。いっけん、しあわせとは何かについて、まったく別のように思えるが、そうではない。自分が良いと思った商品を相手は必ずしも良いとは思わない。同様に、自分がありがたいと思うことも、相手はそう思わないこともある。売れない商品・サービスには共通して、自分のコトしか考えてないところに原因の一端がある。

何を言いたいか?僕はちょっと、危険なことを言おうとしている。反発を受けるかもしれない。しかし、感謝できない心の持ち主にこの価値は伝わらないだろう。ビジネスがある意味で「しあわせ」を追求するものである以上、ひとりよがりではいけないのだ。相対的な基準に振り回されている場合ではない。つまり、僕たちは付き合うクライアントや人を選ばなければいけない。誰かの言いなりになりたくないならなおさらだ。感謝できる心を磨くか、相対的なしあわせを追い求めるか。人生は有限だ。誰かの幸せに貢献したければ、やはり選択の必要がある。

何も考えず、多勢で一緒に落ちていくか、それとも少数の仲間と這い上がるか、それが問われている時代だと思う。大勢の中にいると安心だけど、それで本当に自分は幸せなのか?死ぬ間際に、自分の人生を思い返したとき、生き切ったと言えるだろうか。疑問だ。たとえ失敗しても、自分で考え、自分で選んだ道なら、他人に同調して後悔するより、ずっと価値がある。

会社や上司の方針に従って生きても、この不確実な世界でそれに依存するのはリスクが高い。会社や強者に依存する時代は終わったと思う。これからは、自分一人で生きていく力を持たなければ、大切なものを守れない。誰にも依存しないで生きていく自信を持つこと。それが、自分の人生を自分で描く第一歩になる。得意不得意に関わらず、与えられたことをただこなすだけの選択は「しあわせ」になるならやめた方がよいと思っている。

自分を殺す必要はない。自分がどんな人間で、何を得意として、何が苦手か。自分がやりたいことで、どうやって他人を幸せにできるか。それだけに焦点を当てて、人生の選択をしていくべきだ。純潔を好むことはいいけど、独りよがりになってはいけない。自分を磨くには時間が必要だ。狭い道を歩く時は、一歩下がって人に道を譲る。常に反対意見を耳にし、思い通りにならないことに直面してこそ、自分を高めることができる。いつも快いことばかり聞いて、望み通りに事が運ぶ人生は、自分を駄目にする。

今、道は開かれている。自らが主導権を持って、自分の人生を生きるには選択が容易だ。苦々しい野菜をかじってこそ、人生の妙味がわかるというのは言いえて妙だ。僕は高くなった鼻をへし折られて、ようやく理解した。