文章とわたし

創作物と自分自身の距離感。
アーティストと呼ばれる人たちの中には、
完成した時点で、もう私のものではない、それは見る人のもの
といった趣旨のことを言うひとがいる

いまいち、その言葉であったり、その境地を今まで理解できなかった

近年、言葉は浮かんでくるのに何かがブレーキになって書き進められないという状況に置かれ、打開策が見つからないままもがいている

ふと、もう私のものではない、というフレーズが浮かんだ。

私に足りないのは、不足しているのは、手放す感覚ではないか。
自分から出てきた言葉をいつまでも自分のものだと、抱きしめているから、周囲からの反応が怖くて、吐き出せないのではないか。
境界線がないんだとおもう。
自分自身と、自分から出てきたものが、分離できていない。
だから、自分から出てきた言葉や文章が批判、否定されると、自分そのものを否定されたかのようなダメージを受ける。
さらには、ダメージを想定して、受けてもいない批判の声が響いて、筆が進まない。

アーティストのいう、私の手を離れたものは、すでに私のものではない、というのは、特別な感情ではなくて、何かしらをクリエイトする人ならば、身につけるべき健全な感覚なんだと、ふと気がついた。

小さい頃から、表現するのが好きだった。
自分の中にある感覚的なものが、外に出て行く感覚が気持ちよかった。
幸いなことに、シビアなリアクションにさらされる環境ではなく、生み出す感覚、自己との会話だけで満足していた。

それが、プロとして、仕事として、生み出すことになり、当然仕事へのリアクションが来る中で、自分自身と、自分から離れた言葉との間に適切な距離感をつかむ間もなく、がむしゃらにやるしかない中で、誰かに言葉が届いたときは、自分自身が認められたかのように嬉しく、届かなかったときは自分自身が否定されたかのようにダメージを受ける状況に陥ってしまった。

言葉にしてみると、それはしんどいわwww

推しのアイドルは、見た人の感情の出発点になれればうれしい、と言う。
これは、強い、と、その言葉を見たときに思った。
アイドルに向けられる感情は、賛美ばかりではない。
それでも、彼らは無関心よりも、負の感情を歓迎する。
その覚悟がすごい。
オンガクにしろ、芝居にしろ、人の心を動かすことが仕事だという割り切りがすごい。

記者の仕事だって、読まれないより、読まれる方が何万倍もいい。
賛否両論巻き起こしてナンボだ。

書き上げたものは、デスクもしくは第三者に見せた瞬間から、私だけのものではない。
すでにそれは、私自身ではない。
気取った言い方をすれば、時代を描写した言葉のひとつ、歴史に埋もれる言葉のひとつ、それに言いも悪いもない。
傷つくことを恐れる必要はない、というよりも、そもそも私自身ではないのだから、傷つく必要がない。

しばらくは、新しいマインドを乗りこなすのに時間がかかるだろうが、この気づきを、味方にしたい。

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