眠り間【2000字のホラー】

「では薬を変えてみましょう。少し日中の眠気が強いかもしれないので、また教えてください」


　事務的にそう言う主治医の顔が思い出せない。長らく、病院へは薬を貰うためだけに通っている気がする。僕も診察の時はずっと下を向いているばかりなので、その態度も良くないのかもしれない。診察室の椅子は床に固定されて、座った時にちょうど右のつま先の下あたりにある汚れは鮮明に覚えてしまった。

　一包化された入眠剤と安定剤、その他色々な錠剤たちは、昔より随分と増えた。それを飲み下し、床に就く。枕元の扇風機はぬるい風をかき混ぜるだけで、全く涼しくない。傍に置いてある愛用の文庫本を開き、適当なページを開いた。

　診断書を貰ってから、2年。僕は親の仕送りと日払いのアルバイトで細々と暮らしている。事故物件らしいこの部屋は家賃が安いので助かる。僕はそういうものは信じないタチだ。

　新卒で入った会社と合わないまま働き続けて、1年ちょっとで退職。どうにか金を捻出して引越したので、実家にも僕にも蓄えがない。


「月に何万円か仕送り送ったげた方が、圭ちゃんにとってえかろぉ」


　電話で母さんはわざと明るい調子で話していた。都会に送り出した子供がすぐに戻ってきたと周りに知れると、どうも都合が悪いのだろう。田舎には嫌なネットワークが蔓延っている。

　病とはなんとか付き合っているつもりだが、最近妙な夢を見るようになった。そのための強い入眠剤だ。今日こそ、うまく眠れるはず。手元の文庫本は、古本屋で買ったてきとうな本だ。興味のない文章に目をやると、目がすべって眠気が誘はつされる。

　時計のはりが半周したあたりで、本がどんどん重く感じてきた。体ぜんたいが薄いふとんに沈んでいく気がする。豆球は狭い部屋をおれんじ色にそめあげていて、まどろんできた、床にちかづくたびにその色はくらくくろく、心地よいようなせんぷうきの音がなって床、のほうがつめたい、きがする鼻を指の背で撫でられる感覚が今確かに。

　意識が急速に覚醒していくと共に、嫌な汗が体から噴き出てきた。天井が揺れ、拍動が指の先まで伝わってくる。妙な夢、とはこの事だ。体を誰かに触られたり、人の視線を感じたり、寝入るか寝入らないかの境目にそういった感覚が襲ってくる。眠れない夜はいっそのこと開き直って、適当にSNSを見るのもいい。だが今日は処方された薬の他に、適当にドラッグストアで見繕ってきた睡眠薬も追加でのんでいる。だから、体を起こす気力すら今日はない、このけだるさを利用して眠るしかない。あの感覚は夢のはじまりだろう。まいにちあまりにも楽しくないので、あんな悪夢をみる。ぼくの心臓はあいかわらずドキドキと脈うっていて、でも夢というのは現実であったき憶をせいりするために見るものでは、ぼくは起きてるときそんな目にはあって、ないでもあれはほんとうに起こったみたいで足と足の間に何かがいる。

　ビクン、と下半身が跳ねた。冷えた何かがふくらはぎに擦れた気がする。今日は一段と症状が酷い。眠りにつくことさえ出来ればどうってことないのに。それか、もう諦めて起きてしまおうか。

　手に力を込めて起きあがろうとするが、どうしても体が動かない。指一本を少し動かすだけでも鉛のように重怠い。勝手に飲んだ薬のせいだろうか？　時計の針はいつのまにかあれから一周はんも、うごいていた、まったく眠った気がしない眠いだるい、ぞわぞわする。あれこれってもしかして、寝入るときにこわいことがおこるんなら今晩はずっと一ていのかんかくで怖いことがおこり続けると言うこと？

　医者の言うことをまもらなかったからこういう作用がでているのか、じゃああれはいまいるあれはお化けとかじゃなくてちゃんと夢てことであっているか、ぼくのへや、誰かがこちらをじっと見ている。

　オレンジ色が度々見えなくなるのは、僕の瞼が知らぬ間に閉じているからと気づいた。視界が歪み、気分が悪くなってくる。でも体は動かない。今僕は起きているのか、それとも夢にはいれたのか。わからないのは、足元に人みたいな何かが立っているからだった。扇風きが切れた。むせかえるくらいの暑い部屋と3じかんタイマー、もうそんな時間か、ちゃんといまは眠りにつけている？

　夢の中くらいはいい気分でいさせてほしいよねぇ。

　……知らない声がした。夢の中か、これは。女の子は僕のあしもとからぼくへ手をのばした。かすみがかった視界が女の子の手でおおわれてくろくなっていく、はてぼくは、からだ全部がくろくおおわれたこれ、を、おんなのこだとどうしてわかって、声もひくかったのにちゃんと女の子だとわかった、女の子の手がのび、て、てとくびがながい女のひと、苦しいけど、今日は眠れたんだ、よかっ

「夢じゃないよ」

　笑いながらそれは言う。僕の首は、絞められている最中だったので。
　何も、返せないまま。意識は暗く。遠く。なった。