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写経#005 "傍観"

説明:上から目線の添削や評論、解説じゃない。愛読、愛聴しているもの、衝撃を受けた文章や詞(詩)を筆写(手入力)して、どこに揺さぶられたのか、優れた表現を見つめ直す、取り戻すための習作シリーズ。自筆文字は汚いので悪しからず。


豊洲PITで観た、凛として時雨が変わらずに格好良かったので、彼らのライヴでの定番曲をセレクト。

■渦巻く感情を落とし込むのは難しい…

誰にでも、嫌な思い出の一つや二つはあるもの。大抵はその当時の人間関係だったり自身をとりまく環境由来のことが多く、対象となる人々と疎遠になったり、環境を変えたりして直接的なやりとりがなくなればスッキリと忘れることができる、と言われている…が、そうならない場合がある。

直接の原因となる人と一切連絡を取らなくなり、連絡手段を放棄しても未だに手放せない、ゴミ屋敷化して肥大した記憶。こいつはかなり面倒だ。それはまさに「殺したい記憶」であり、ふとしたきっかけでゾンビのように蘇る。「どこかで見たような風景」がトリガーとなり、それらは即座に「頭を支配する」からタチが悪い。


「なりすましている自分」は、社会生活を送る上での対外的な、よそ行き顔のペルソナ。だが、殺したい記憶のメビウスの環に陥ると、その社会性の仮面がすべて欺瞞に思えてくる、恥ずかしくなってくる。成熟した立派な大人風と自分自身に言い聞かせ、体裁を保っている己はなんと醜悪で、「消えたい」とさえ思ってしまう。自己評価ダダ下がりモードだ。


結成初期の頃から、本編ラストなどの重要な局面で演奏されている凛として時雨の『傍観』。最初に聴いたときは、(僕は)「消えたい」「汚い」というワードが繰り返されることもあり、若人が感情の赴くままに、自己肯定感のない主人公を描いた、初期衝動に忠実に作られた楽曲と安易に思っていた。

自分の作品を書こうと思い立ち、改めて歌詞を読み返してみると、それだけではこの詞は書けないことに気づいた。脳内にうずまく感情は、読んだり聞いたりする用の整った言葉や文章に、実にしづらい。伝わる言葉にするには、その情景や記憶に立ち向かわなければできない。

「知らない、見えない、汚い、消えたい」

作詞段階で数多くの渦巻く感情や情景を直視し整理。シンプルな韻踏みの技術を用いつつ、感情の移り変わりを起承転結にした見事な構成力。TK(vo. 北嶋徹)に脱帽するしかない。


ツアー終盤の豊洲PIT公演ラスト。この日『傍観』は、アウトロの轟音の中、TKが立て続けにハイトーンボイスで何かしらの言葉を叫んでいた。殺したい記憶にケリをつけるという当初の目的が達成された後は、その瞬間ごとに感じたTKの喜怒哀楽を発露する場所にもなっている。20代の彼が作った楽曲が、30代後半となった今の彼の背中と意識を押す。正しい自己救済の様を見た。

※権利者各位:個人習作のための模写ならびに引用ですが問題有りましたらお知らせください。







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