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共感性ファシズム

「公共のトイレでトイレットペーパーが空になっていたら放置せずに交換し、さらに率先して隣の個室の分まで換えていく」と言う持論を展開した女性芸人に似ていると、一度だけ言われたことがある。薄いアイメイクをごまかすかのような大きなフレームの眼鏡、口角を上げると独自の形状に浮きあがる頬肉、当時の髪型。確かになぁと思わせられた。だが彼女が彼女としてもつ魅力はもちろんあれど、ちょうどいい「ブス」を自称する女性芸人に似ていると言われて素直に喜ぶ女はそうそういないだろうなと、複雑な気持ちになった。さて私自身が公共トイレの隣の個室の紙を気にかけることなどあるはずもなく、ちょうどよくないただのブスに堕しきっていることは言うまでもない。

さて私が「お勤め」に向かっていたムショでは、狭い雑居房に数人の女囚が収容され、各々の刑務作業に従事している。匿名で使える公共トイレと異なり、共用PCやコピー機の故障という不運な事態には、誰かが立ち会わざるを得ない。そしてその事態に誰が見舞われるかは運の巡り合わせ次第である。軽い故障であって素人がその場で問題を解決できるのならよい。しかし素人では直せないことが女囚たちの間で判明し始めると、共感性ファシズムの祝祭が幕を開ける。狭い雑居房の中で女囚は壊れたコピー機に群がりはじめ、素人には何の対処もしようがないことが既に明らかであるにもかかわらず順繰りに機械をいじくり回し、「この雑居房の成員である私は共有の器物に対して意識を払っている」ことをアピールする。彼女らにとって壊れたコピー機は共同体意識を確認する儀式の祭具であり、神輿であり、あらかじめ死んだ生贄なのである。(なお人を自分の目的のために動かすことを「ダシに使う」と表現することがあるが、祭礼の出し物である山車(だし)とはなんの関係もないらしい。)心配しているふりをすることで一体感を演出する、そうしてその中でそれに参加しない女囚がいないか、互いに互いを監視し合うのである。彼女らは、互いに成員たる資格があるか、すなわち今後ともコピー機を使い続ける資格があるか、振るい落としの儀式を始める。  当然のことながらこのくだらないママゴトに参加しなかった場合、ペナルティが課される。以後そのコピー機を使うときに、冷たい目で見張り、ママゴトへの参加を欠いたお客さんのくせに一丁前にこの部屋のそのコピー機を使うのかと、罪悪感を抱かせるのだ。この運悪く雑居房にやってくることになった業者は、この茶番が繰り広げられているのを背中越しに感じながら、修理作業を行うことになる。業者の後ろで心配そうなフリをして、手持ち無沙汰のためか女囚同士で雑談を始めるのならまだよいだろう。酷い場合には、修理業者にあれこれと操作や修理に関係のないことについて話しかけることで、邪魔をする場合もある。しかも酷い場合には、その機械を使う立場にない人までそこに加わり、宴を扇動するのである。

以前、アメリカの理系研究室でもジェンダー格差は狭まらず、女性が掃除をすることになりがちだ、というニュースを目にしたことがある。これが本当にジェンダー云々の問題なのかはわからない。私はただ、じゃあもう掃除やめろ、と思った。この研究室に属していながら「男性叩き」の集まりに参加しない女性は、女性成員の一人として認めてもらえないであろうことは想像に難くない。女性研究者が集まって、より過激な表現を使った「男性叩き」(「男性」に限らずあるいは別の対象を叩く場合もあるかもしれない)をすることで結びつきを強めることって、なんとなく虚しいことだと思った。

しかしながら女性集団から排除されたからといって即座に男性派閥に受け容れてもらえる、ということでもないと思う。なぜなら、男性派閥に属するための儀礼を通過しなければ成員の一人として認めてもらえないからだ。コロナ禍前、男性のみで構成された異常者集団を飲み屋へ案内する役目を仰せつかったことがあった。その中でもとくに異常性と互いの結びつきが強い3名がいた。彼らは、テーブルに備え付けられている紙ナプキンに塩の山を作り、唐辛子や山椒をトッピングして、指でねぶっていた。それらを肴に酒を嗜むのである。それを見た私は、酔いが醒めるのを感じた。「最悪の桃園の誓い?」と、思った。もちろん彼らは一国の皇帝になるような由緒正しい血統があるわけでも、一日に千里をかける馬に乗って大薙刀をふるう一騎当千の活躍を見せるわけでもない。体型はなぜか皆一様にヒョロヒョロと痩せ細っており、聞き取れないか、もしくは運良く聞き取れても理解して適切な返事を用意する時間がないくらいの早口でしゃべり倒す。もしも彼らの会話を撮影し、倍速で再生したら誰も聞き取れないと思う。Tシャツを裏返しに来ており公共の場でいきなりそれを脱いで直す、酔うとおしぼりで鼻をかむ、鞄がエコバッグなど、ディティールに差はあるものの、異常者の寄せ集めであることは変わらない。彼らは酒の肴を、その紙ナプキンの上の塩で済ませることで食費を浮かせようとしていた。さらに、店のルールを守らず店員さんに注意されたら仲間内の方を向き直って「これだからケチな店は…(笑)」といわんばかりの表情でヘラついた笑みを浮かべていた。肩をすくめて店員に恐縮するそぶりを見せ、恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、きっと内心「お前らのような人間が、このおれに注意する資格があると思っているのか。しかもこっちは三人もいるのだぞ。呆れた。そもそもこっちは客だぞ。お客様だ。金を出しているんだぞ。倍速でしゃべれるようになってから出直して参れ。」と思っているに違いない。こいつらと仲良くするのは無理だ、と私は思った。したくもないし。男性集団の中の紅一点は、塩を舐めて唾液を交換するような惨めなものではないにせよ、なんらかの通過儀礼を終えたのだろうか。だとしたらそれはそれは特異で異例でたいそうなことで結構なことでエラいことだと思う。

女性は掃除をしろだとか、性別によって所属するべき集団が固定されているというわけではない。塩を舐めているかは知らないが、すくなくとも掃除はしない、あるいはできないであろう女性も当然存在する。学生時代、ある女性研究者の研究室に、呂布を思わせるフォルムをしたあの虫が廊下を這って入っていったのを見たことがある。また別の日に、彼女が学生食堂のパフェを注文し、それを受け取るや否や持参した弁当箱にぶちまけ、再び研究室へと帰っていった場面に居合わせたこともある。きっと自身の研究室で、弁当箱にぶちまけられた、ホイップクリームやシリアルの混ざったグロテスクな食べ物を啜るのだろう。ジェンダー云々の問題ではなく、衛生的な寛容さのレベルの問題ではないかと思った。女性研究者で衛生観念の終わった者がいれば、きっと掃除に積極的な衛生観念の備わった男性もいるだろう。「最悪の桃園の誓い」や、上の女性研究者が荒らした部屋の汚さに耐えられなくなった人たちが、掃除を始める。そして、耐えられなくなりがちな人に、どちらかというと女性の方が多いのかもしれないな、と思った。

そして「男性のファシズム」と「女性のファシズム」は、対立しているように見えて、実際には相互補完的に絡み合っているのではないだろうか、と思った。私は、共通の敵を作りそれに対する非難の激しさで集団を形成するのも、塩を舐め唾液を交換することで結びつきを強めるのも嫌だった。そうした方法しかないのなら、集団に所属しなくていいや、と思った。
とりあえず現在、私はどちらにも属したいとも思わず、また属すこともできず、宙ぶらりんの状態でになっている。私が、公共トイレの隣の個室の紙を交換する日、掃除をする日、あるいは塩を舐める日は来るのだろうか?今はどこからともなく「ちょうどいいブス」が現れて、全てを解決しておいてくれるのを待つのみである。


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