犬杉山町の人々〜らいとさいど〜

#短編
#オムニバス
#犬杉山町の人々〜らいとさいど〜

『ハレー彗星下から見るか横から見るか姉と見るか』


今回の登場人物
 ・綿島草介……弟。犬杉山中生徒。デカくてゴツくて糸目。
・和宮琴音……義姉。銀髪赤眼。アルビノ。犬杉山中生徒。海外留学を控えている。



 『海外留学、いいんじゃないかな。姉さんなら大丈夫だよ』
 なんでそんなこと言ったんだろうと自問自答するため息が闇の中に消えてく。消えかけた青い月明かりの下、コンクリートに座り込みぼんやりと義姉の海外留学のことを考え考え、またため息。
 そんな僕の隣から聞こえる小さな寝息が、吸って吐いて吸って吐いてとトゥールビヨンのような規則正しいリズムを刻む。
「義姉さん」
吐息に合わせるようにそっと小さく声をかけるがやはり義姉が起きることはなかった。返事の代わりに義姉さんの透き通った銀色の髪が僕の頬をくすぐる。普段は22時前には眠ってしまうので頑張った方なのだろうけど。もう月も役目を終えて消えていく時間で、やはりというか、なんというか、琴音義姉さんは肩まで毛布を羽織り、僕の肩にその華奢な寄せて眠ってしまった。体温が暖かい。義姉の毛布をかけ直し身を寄せ合う。
「来ないな、ハレー彗星」
寒空の屋上に呟きが消えた。
僕たちは身を寄せ合いハレー彗星を待っている。
『数十年に一度のハレー彗星』
なんてニュースで言っていたのは知っていたが、最初に見ようと言い出したのは横で寝ている義姉さんだった。
家で同じニュースを見てても全く興味なさそうにしているしあまりにも突然だった。義姉さんがそんなことを言い出すなんて珍しいこともあるものだと思いつつも、僕はすんなりとそれを了解した。
もしかしたら前から考えていたのかもしれない。僕がウキウキしながら毛布や珈琲を用意するより早く屋上の鍵は保健師の常葉先生に渡してもらえたらしく既に手に入れていたから。
「ん。ソウ」
 どんな夢を見ているのだろう、寝言で僕の名を呼ぶなんて。
 クスリと笑うと漏れた白い息が大気の中に消えていく。
 義姉さんが海外留学してしまうまでに残り数ヶ月。
それを一緒にいられるのがうれしくて、二人きりというシチュエーションに不埒なことを考えずにいられるはずもなく、ロマンチックな幻想を抱いていたりもしたが――。
「義姉さん」
 小さく呟き。
 そのアルビノの証たる髪に触れれてみれば、柔らかなフーラードの薄絹のような肌触りがする。沈みゆく月の淡く蒼い光を浴びる白い肌に触れようとして、僕は手を止めた。
 きっとそれが出来たらどれだけ楽だろうと考える。最も触れたい人は、とても近くて遠い所に存在することを改めて僕は思い知らされてしまう。そして、それは遠くに行ってしまう。
 痛みと共に、ふいに高鳴る鼓動で義姉さんが目を覚ましてしまうのを恐れ、交代時間になったら起こすはずだったのをそのままに、少し離れた所で毛布に包まった。
 夜通し眠れずに、ただぼーっと座り込んで、果てしなく広がる空のそのずっと果てを見るともなしに見ていた。
 もうすぐ明けようとする夜は夜中のそれよりも冷たい空気を纏う。切り込んでくる様な張り詰めた澄んだ冷たさが心地いい。
 ふと気配に目を遣るといつの間に起きたのか、義姉さんが僕の右隣に立って僕を見下ろしていた。
 その手には僕たちがいつも使ってるおそろいのマグカップが二つ、何も言わず僕に一つ差し出すと、用意してあった水筒の中身を注ぐ。
 ミルクがたっぷり入れられたらしい甘い珈琲の香りがマグカップから漂う。ありがとうと受け取り、乳白色がかったコーヒーの表面を見下ろしていると、香ばしい香りを漂わす珈琲に義姉さんが口をつける音がした。
 僕も自分のカップを口に運ぶと、甘さと温かさが胸を満たしてくれる。
 子供っぽく舌を少し出して『苦いね』と慣れない珈琲に戸惑う義姉さんを見て、僕の身体や心が熱くなってしまうのはきっと珈琲のせいなんかじゃないだろう。
 ふと、見上げた空は今まさに明けようとしていた。
 黒や藍、紫や緋、黄や橙、そして薄い水色。
 見る間に様々に色を変える空に、目を奪われていると、
「……綺麗だ」
 義姉さんが言葉を発した。
 振り仰がずにはいられないほど淡々と。
 ただ 淡々とした声。もう一度呟く。
「綺麗だね、ソウ」
 僕はサンライトイエローの光を浴びた義姉さんを見ながら言葉を返す。
 銀色の髪が、白い肌が、優しく輝いて、強い輝きに変わって――。
「本当に綺麗だ……」
 珈琲の湯気の向こうで。
 ぼんやりと光る義姉さんの横顔。
 義姉さんの隣で見る姿を見せ始めた眩しいオレンジ。
 胸が苦しくなるぐらい綺麗だった。
「ハレー彗星見れなかったね、義姉さん」
「ん。そうだね」
「義姉さんは何か願うつもりだったの?」
「ん……」
 義姉さんがコクリと頷く。
「これからもソウと仲の良い姉弟でいられますようにって。ソウは?」
 僕は一瞬、答えを迷った後、
「うん、僕もだよ」
 そう、答えてキュッと手を握った。
「またハレー彗星が来たら……二人で朝日を見に来ようか」
「ん。そうだね」
 もし、僕が結んで解くこの掌の中に、消えていった流れ星をつかめていたら、最も近くて遠い星に、この手が届いたのだろうか。
柔らかな光の中、義姉さんの輝く朱色の双眸を見つめると、いつも無表情な義姉さんが少しだけ、ほんの少しだけ微笑む。
 僕はそれが嬉しくて、胸で中で輝く星を抱きしめていた。
 見逃さないように、見失わないように。

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