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自称・救援会の新局面

 昨年11月27日午後9時2分に始動した自称・救援会による救援活動は、ここにきて新たな局面を迎えた。12月後半になって、自称・救援会が救援を担った自称・室伏良平氏および飯塚早織(仮)氏の保釈請求がそれぞれ通り、両氏の身柄が解放されたうえで公判に臨むことになったためである。解放とは言え、留置所という「代用監獄」から資本主義的管理社会という「鉄の檻」に移送されたに過ぎず、そうした一般論はさておいても、両氏には1月末に予定されている公判に向けて様々な制約が依然として課されているのだが、少なくとも両氏が我々と同房となった意義は小さくない。これを受け、我々は本日1月5日をもって自称・救援会の救援活動を一歩前進させることを、ここに表明する。
 なおこの文章は、昨年12月15日付で『情況』誌に寄稿した声明文を要約し、その後の動向を加えたものである。我々の基本的な立場と方針は変わっておらず、両氏の移送によって、むしろ全面的に開花させうる段階に移行したと言えよう。我々の基本的な主張の詳細は、ぜひとも『情況』2021年冬号(近刊)を参照されたい。
 さて、そもそも自称・救援会において「救援」とは何を意味するのか。まず、Twitter上での声明にもある通り、「支援者に対する現状報告」、「カンパの呼びかけ、および集まったお金の管理」、「被逮捕者への支援(差し入れ、起訴・裁判時の支援など)」がある。救援活動において、こうした実務は非常に重要であり、労力の大半はここに費やされる。だが、それだけなら自称・救援会が救援を担う必然性は、実はない。自称・救援会が立ち上がる前に、本件に関わって複数の救援会が立ち上がっていたことをご存じの方も多いだろう。そのなかで、なぜ自称・救援会を独自に立ち上げなければならなかったのか。鍵となるのは、Twitter声明文の最後にある「被逮捕者の意思に沿った活動」という一文である。ここにこそ、自称・救援会でしかなしえない「救援」の意義がある。
 なお、自称・救援会が救援を担う「被逮捕者」のうち、飯塚(仮)氏については、その意思を受けて「カンパの呼びかけ、および集まったお金の管理」および「起訴・裁判時の支援」に集中することとなった。問題は、自称・室伏氏の救援である。彼は、今回の逮捕以前から、そして勾留中の面会や獄中通信『結束』においても、その意思を我々に伝えていた。では、彼の意思に沿った救援とは何だろうか。
 これを理解するためには、8月3日の名古屋米領事館におけるビラ撒き(以下、8・3行動)と、これを理由とした逮捕・勾留をどのように考えるのかという問題を検討する必要がある。まず、8・3行動を「表現の自由」の行使とし、逮捕・勾留を基本的人権の弾圧と捉える見方がある。この場合、救援活動には、不当弾圧への対抗を呼びかける市民運動も含まれてくるだろう。あるいは、8・3行動は一種の前衛的なジョーク、あるいは思想的・組織的な背景などないサブカル的過激派ごっこであり、それを公安事件とする――実際に本件では公安警察が捜査している――ことが間違っているという見方もある。この場合の救援活動は、警察や世間に対してはその誤解を解き、被逮捕者に対しては反省を促すことも含まれてくるかもしれない。
 しかし、これらの方針を自称・救援会は決して採用しない。なぜか。それは「被逮捕者の意思に沿った活動」を行うためである。自称・室伏氏は次のように述べる。


我々の行爲は、我々の主權が及ぶ範圍での我々の論理體系下では當然無罪である。しかし現狀、こゝ名古屋も含めて、この列島は日本執政が實行支配(救援会注:原文ママ)してゐる。彼等の體系を正しく讀解すれば、我々とは異なる結論が導き出される。本件はそれ以上でもそれ以下でもない。(『結束』2680年12月5日朝刊


日本執政の実効支配下という条件においては、自称・室伏氏は罪状を完全に認めている。「表現の自由」を訴えて無罪を主張するのでもなければ、実は冗談です反省していますと言って罪状を矮小化するのでもない。もちろん、弾圧ではない、というのでもない。しかし、それは不当・不法だからではなく、むしろ日本執政下の法運用としては適法であるからこそ、政治犯への弾圧なのである。政治犯とは、自らの思想信条でもって、ある政治体制内における法外の存在として立つものをいう。その意味で、彼は政治犯としては、いかなる判決でも、日本執政の実効支配下という条件においては甘んじて受ける覚悟がある。
 逆に言えば、自称・室伏氏は、彼(および彼の言う「ファシズム評議会」)の主権の及ぶ範囲内においては、事件に当たっている公安警察や検事の担当者を「民主主義勢力による反逆罪」(『結束』2680年11月25日朝刊)で起訴すると言っており、彼自身、紛う方なき弾圧者である。政治犯に対しては、互いに弾圧しかない。互いの主権範囲から見れば、自称・室伏氏が政治犯であるだけでなく、公安や検事も政治犯である。公僕だからと逃れられるなら、アイヒマンが極刑になることはない。
 以上から読み取れる彼の意思は、その主権範囲を存立させる思想信条を曲げることなく、徹底的に貫くことであろう。その意思は、8・3行動のみならず、一昨年に開催された国際超芸術祭なごやトリエンナーレ2019実行委員会への参加(注)や、昨年の検察庁前テンピン麻雀大会黒川杯なごやトリカエナハーレ2680 の実施など、逮捕前からの彼の活動に貫かれていたものである。とすれば、自称・室伏氏の意思に沿って「救援」するということは、必然的にこの主権範囲の領域を承認し、後方支援することに他ならない。
 その際、否応なく我々自身の思想信条も問われることになる。ここで言っているのは、左翼とか右翼とか、リベラルとか保守とか、宗教とか反宗教とか、そのようなラベリングされた「思想信条」のことではない。そのようなラベリングを超越し、そのうえで此方と彼方を分かつもののことを言う。自称・室伏氏の救援会組織として、我々は思想信条を問わないのではなく、思想信条しか問えないのである。
 もちろん、人間関係は思想信条による結束がすべてではない。例えば、成り行きや友情や興味による縁は、確かにある。これらの縁から自称・室伏氏に注目し、支援しようという諸氏には、心より感謝している。なにより我々自身、元々はそうした縁によって自称・室伏氏と出会ってきた。だが同時に我々は、そのような成り行きや友情や興味の極致に、現体制下の規範法則の外に立ち上がる領域が口を開けていることも知っている。自称・救援会は、これを直視した者たちの結束である。
 今、こうした自覚に基づく自称・救援会の救援活動が全面的に開花しようとしている。その救援活動には、実務的な支援に加えて、自称・室伏氏の主権領域を存立させる思想信条を宣布する宣伝戦も含まれる。はっきり言おう。我々はプロパガンダを行おうとしているのである。
 以上が、新局面における我々の方針である。いかなる形であれ、我々の活動をご支援いただけるという諸氏には、深く心より感謝を申し上げたい。

2021年1月5日
自由流襟座或(自称・救援会世話人)
自称・救援会 一同


注)なお、この会期中に発生した所謂「水=ガソリン事件」の事実的な総括については、自称・室伏良平(東8番)氏による「なごやトリエンナーレ事件・總轄篇」を参照。

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