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『米國領事館でまた會ひませう』と8.3ビラに顕現する戦前・戦後・その後

大野左紀子

米國領事館でまた會ひませう|東8番|note

1. テキストにおける時制の混在

『米國領事館でまた會ひませう』と名付けられたこのテキストは、一読すると、”狂人”Mとその仲間たちの8月3日の行動を第三者的視点から記述した体裁になっている。書き手である自称・室伏良平がMを”狂人”と設定しているらしい理由は、「狂氣」という言葉が3回出てくることからも推測できる。
しかしMとはどう考えても自称・室伏良平本人であろう(Mは室伏の頭文字)から、これは自称・室伏が自身の行動をアイロニーを込めて記したものと考えてよいだろう。ちなみに彼はこのテキストを「ポエム」と呼んでいる。
「ポエム」として8月4日のnoteに記述されたところによれば、前日の8月3日、次の新型爆弾が3日後の8月6日に日本に落とされると「知つてゐた」Mは、日本を守る在日米軍にそのことを知らせるという「國民の義務」を果たすべく、仲間たち4人と「狂氣の計畫」を実行、国際センタービル6階にある在名米領事館前の廊下で「あと3日だ!」と叫んでビラを撒き、直後に仲間たちと遁走した。

もしどこかの国が日本に新型爆弾を投下するという情報を政府筋が掴んだ時、それはただちに日米安保の同盟国であるアメリカに伝えられると同時に在日米軍にも知らされることは間違いない。Mのやっていることは、それと同型である。
つまり日米安保を内面化しているという意味で、Mはありふれた日本人の一人である。言い換えればMは、アメリカの傘の下に甘んじてきた戦後日本の状況をもっとも端的に体現する、愚直なまでに親米的で現状肯定的、受動的な現代日本人のカリカチュアである。
Mが狂っているとすれば、3日後の8月6日に新型爆弾が落とされることを自分は「知つて」いると信じている点だ。だが、それもまったくの出鱈目とは言えない。75年前には、それは紛れもない事実だったのだから。
広島の原爆被害者の中には、投下の数日前に「広島に新型爆弾が投下される」という話を聞いたとか、それを警告する米国のビラが撒かれたと証言する人が少なからずいる。国立広島原爆死没者追悼平和記念館や広島市発行の広島原爆戦災誌にも、似たような証言の記録がある。広島平和記念資料館によると、正式な記録やビラの存在は確認されていないが、数ある証言を否定もできないという。
従って、もしMが”狂人”ではないとしたら、考えられることは一つ。自称・室伏良平がMを、1945年の夏と2020年の夏という2つの時空を横断する者として描いていた、ということである。このことはテキスト冒頭の3つの文における時制の混在に現れている。順に見てみよう。

「Mは知つてゐた。次の新型爆彈が落ちる國がどこかと云ふことと、その日時さへも。」
冒頭でMは想像的に、1945年の夏、原爆が投下される数日前に広島上空から米軍が撒いたとされるビラを受け取った市民の一人となっている。

「我々の國には憲法の上位存在がある。日米安保である。」
太平洋戦争に敗れ連合国アメリカの占領下に置かれた日本は国民主権と平和主義を謳った新憲法を発布したが、ソ連と対立を深めたアメリカは日本を対共産主義の防波堤と位置づけ、1951年日米安全保障条約が締結された。占領解除後も占領軍は在日米軍として国内に駐留し、日本はアメリカの極東軍事拠点としてあり続けることになった。つまり上の一文は、「戦後の日本は一貫して対米従属政策を進めてきた。よって日本はアメリカの属国である」という、現在の「日本(⊂アメリカ)」についてのMの認識を示すものである。

「我が國の國體の根幹である在日米軍に對して、自分が知り得た最大限の情報を提供しに行くのは、彼らの傘に護られた國民の義務であるとMには思はれた。」
ここで、1945年8月3日と2020年8月3日とが重ね合わされる。時空はねじ曲がり、75年前、米軍が新型爆弾を投下したという既に起こってしまった事実への認識は、今から3日後にこの国に新型爆弾が投下されるという確信に取って替わり、Mは戦前と戦後を同時に生きる存在となって立ち上がる。

以降は、そのようなトリッキーな存在として自己規定したMが、在名米領事館前ビラ撒き計画を実行する様子がおそらくは概ね事実に基づいて記述されている。

2. ”ビラ内ビラ”とメタ・テキスト

noteテキストの上に掲載されているビラについて考察してみよう。8月3日当日、国際センター6階の廊下でMによって実際にばら撒かれたビラの画像が3つ横並びになっている(両側の2枚は端が切れている)。
B5の紙を4つに裁断したサイズだったという紙面の大半を占めるのは、誰もが知っている原爆投下直後のキノコ雲の白黒写真である。その中央よりやや上に、Evacuate the US Army from Japan right now.(アメリカ軍は今すぐ日本から撤退せよ)というイタリック体の文字列が白く浮かび上がっている。
言うまでもなくそれは、沖縄を中心として日本でこれまで幾度も幾度も上げられ、その都度無視され続けてきた声であり、アメリカが現在に至るまで政治、経済、軍事の面で日本に強い影響力、支配力を行使してきたことに抗議する文言である。
写真の下の余白には世界で最もメジャーなフォント、ヘルベティカの斜体で、This country is the target of a next new bomb.(この国は次の新型爆弾のターゲットである)と記されている。
この文は、テキスト冒頭の「Mは知つてゐた。次の新型爆彈が落ちる國がどこかと云ふことと、その日時さへも。」と呼応しており、原爆投下の数日前に米軍が広島上空から撒いたとの証言のある警告文の英文化という体裁になっている。

先のテキストにおいてはMは、日米安保を内面化した現状肯定の日本人として描かれていた。しかしこのビラには「アメリカ軍は今すぐ日本から撤退せよ」という反安保のメッセージが記されている。なぜだろうか。
まず、キノコ雲の写真と白抜き文字のセットは、一つの独立したビラ、つまり”ビラ内ビラ”と見做すことができる。実際このようなビラがこれまでに、国内の米軍基地周辺で抗議の一環として撒かれたことはあっただろう。そうした状況において「アメリカ軍は今すぐ日本から撤退せよ」という言葉は、日本=受動性を帯びた「被害者」、アメリカ=能動的な「加害者」という構図の上で発せられてきただろう。
しかし「撤退せよ」といくら繰り返しても、その命令あるいは懇願はいまだ叶えられていない。日本がアメリカの属国である以上、それは当然である。従ってこの”ビラ内ビラ”は、これまで繰り返されてきた反安保のメッセージをストレートに届けようとするものではなく、「アメリカ軍がいつまでもここから撤退しないという現実を示すもの」と見るべきである。

ビラの下部にある英文(この国は次の新型爆弾のターゲットである)は、その虚しい現実、虚しい反安保メッセージについてのテキストである。つまりこの文は形式的にも内容的にも、上の”ビラ内ビラ”の外部、メタ・ポジションにある。フォントを変えているのはそれを明確にするためだ。そして、75年前に発せられたとされる警告文の形式を借りて、「(アメリカ軍がいつまでも撤退しない)この国は次の新型爆弾のターゲットである」と言っている。そのような「日本(⊂アメリカ)」は、まもなく壊滅の憂き目に遭うだろうと予告しているのである。
ここに、被害/加害、受動/能動の構図は相対化される。目前に迫った危機についての重大情報を掴んでいると信じるMは、少なくとも被害者の立場にはいない。米領事館に対して警告するこのビラにおいて、Mの意識は日本やアメリカより上位にある(その警告がもし事実となったら、何者かが投下した新型爆弾で自分も死ぬのではないか? おそらくそれも織り込み済みである)。

テキストでは、被曝前の広島市民に想像的に同化しつつ、同時に親米的な戦後の日本人をアイロニカルに演じたM=自称・室伏良平は、ビラでは、主に左翼陣営によって担われてきた反安保をはじめとする反権力を掲げた政治運動の限界をメッセージの入れ子状態において示し、日本壊滅予告によってアメリカに蹂躙され続けてきた戦後を否定してみせた。それは、戦前と戦後を横断する者というアクロバティックな自己規定によって可能となった。
平素から国民服に身を包み、旧仮名遣いを使用し、留置中に綴った文章で自分を拘束している権力に対し「~を許可する」という上からの構えを崩さない自称・室伏良平を知る人なら、彼が自分の生まれるはるか以前の日本に己の生と思想の根拠を見出し、それによって民主主義と資本主義が”宗教”と化した戦後を問い、自らの信じる来るべき「その後」の世界を仮想的に生きようとしていることを、直感的に理解するだろう。

3. 「享楽」としてのモチーフ

テキストには、8月3日にMたちが現場で流したとされる曲名が2つ登場する。1つ目は”We’ll Meet Again”。 第2次世界大戦から戦後にかけて連合国の間で人気を博したイギリス人歌手、ヴェラ・リンが1939年にリリースした曲であり、『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(スタンリー・キューブリック監督、1964 )で使用されている。
『博士の異常な愛情』は、反共陰謀論にとり憑かれて頭の狂ったアメリカの将軍が、指揮下のB-52爆撃機にソ連への核攻撃を命じたことから起こる米国政府首脳部のドタバタを描いたブラック・コメディで、性的隠喩を散りばめつつ冷戦構造を皮肉った傑作として有名である。
“We’ll Meet Again”はラスト、危機を回避することに失敗し、50発の核爆弾が次々と爆発して巨大なキノコ雲がスクリーンに映し出される場面に流れる。全人類が滅亡し地球の砂漠化が決定したシーンにおける「また会いましょう」は、新型爆弾でこの国が砂漠化することを「知つて」いるMの「米國領事館でまた會ひませう」と響き合う。

2つ目は、イギリスのグラム・ロック歌手、ゲイリー・グリッターが1972年にヒットさせた”Rock ‘n’ Roll (Part 2)”。2019年のアメリカ映画『ジョーカー』で、主人公が踊りながら階段を降りてくるシーンに流れる曲として再びよく知られるところとなった。彼が自身の力を確信しジョーカーとして生まれ変わっていく黒い高揚感に、不穏でセクシーな雰囲気を付与している。
バットマンの最大の敵にして悪の化身、ジョーカーが誕生するまでを描いたこの作品は、不幸な下層男性のルサンチマンがやがて社会への反撃へと転化するといったストーリー上の因果律をもってはいる。しかし我々の覚える「享楽」は、暴力の伝播によってそれまでの安定した、だが抑圧的で欺瞞に満ちた世界が崩壊していくプロセスにこそある。
「享楽」とはラカン精神分析の用語で、無意識で欲望されている、快楽を超えた苦痛を伴うような強烈な体験を指す。ピエロメイクを完成させたアーサー=ジョーカーが「笑われる者」という受動性を暴力的かつ快楽的な能動性へと転化させていくさまと、『博士の異常な愛情』で核爆弾が閃光とともに炸裂し続ける圧倒的なラストシーンは、我々が無意識で何を欲望しているかを如実に物語っていると言えるだろう。

ビラにおけるメッセージの入れ子構造、「ポエム」テキストの時制の混在、そこに散りばめられた音楽(映画)の喚起する破壊的イメージ。しかしこうした要素によって、自称・室伏良平が首謀者であった在名米領事館前ビラ撒き行動を、アート表現と捉えるのは誤りだ。政治それ自体の芸術化こそ、彼が為そうとしていたことである。
「革命の夢が潰えた現代の政治的行動や主張は、芸術的に行われるべきである」ということを、なごやトリエンナーレ以降の自称・室伏の言動に我々は見てきた。まったくその姿勢をもたない凡百の上から下、右から左までの政治闘争や、政治的問題を芸術再肯定へと結びつけるがごとき表現活動から遠く離れてあるために、この8.3の計画は組み立てられたのである。

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