孤独権ーヒト・モノと接しない権利ーを求めて

IoTやIoBが第四次産業革命ののちに、社会全体として標準化された世界はまさに映画や小説、漫画の世界である。そのような社会は相当便利な社会になっているだろ。そのよう便利な社会だからこそ新たな権利が必要とされているのではないだろうか。

今日でも「忘れる権利」等新たな権利が欧州等で認められている。30年後の社会では、いま以上にさまざまな権利を市民が獲得しているだろう。そのなかの一つの権利として、おそらく「人・モノと接しない権利」が登場しているのではないだろうか。

30年後の世界では情報伝達に大きな変化が起きているのは間違いないだろう。それこそ脳にチップを埋め込み言葉を直接介しない意思のやり取りが可能となっているかもしれない。そこまで技術が進歩していなくても現在以上に情報の相互やり取りは活発になっている。それは人同士の情報伝達だけでなく、人とAIとの情報伝達が非常に活性化していく。このような世界で人は常に情報の波に晒され、その波に乗ることを求められてしまう。換言すれば、人は生活のその全てにおいて、あらゆる情報やその媒体に身を晒している。

その波は情報インフラ由来のものであり、どんなに高台に逃れても迫りくるものである。将来の世界において、人は僅かでもその波から逃れたいと思っているだろう。なぜなら、それはあまりにも日常生活を浸食しているからだ。つまり、私たちは「ヒト・モノ」からたえず情報が伝達され、その伝達に対して逐次反応している。この世界で人々は、つかの間の休息を求める。それが新たな権利なのだと思う。

それはミュートやブロックのような機能ではない。その権利はいわば「孤独」な状態を担保するものである。その状態を達成するために、社会として「ヒト・モノ」から人々を遠ざける必要性があり、それは個人の自由なタイミングで選択できなければ意味がない。

この「孤独」については、ハンナ・アーレントの言葉を借りたい。

孤独のなかでは私は決して一人ではなく、私は私自身とともにある。

このように孤独であることが問題なのではない。むしろ、30年後の世界では孤独になれないことこそが問題なのである。孤独になることからはじめる他者との世界構築。そのために必要な権利が「孤独権」となるだろう。

最後に結び変えて一つの書評を紹介したい。

水無田 気流氏による 中山 元著『ハンナ・アレント〈世界への愛〉
――その思想と生涯』新曜社2013年 の書評である。

先ごろマルガレーテ・フォン・トロッタ監督による映画も公開され、再評価の進むハンナ・アレント。政治哲学者として、またユダヤ人として、全体主義との数奇な格闘を余儀なくされたアレントの思想が、丹念に詳解されていく。
 アレントの主著『人間の条件』のタイトルは、当初『世界への愛(アモールムンディ)』とする予定だったという。この逸話を軸に、「世界」と「愛」についての思想が展開する。アレントの世界概念は、歴史性、持続性、他者性の三つの特徴をもつが、それらは「天としての世界の歴史」「地としての大地の持続」「装う者としての他者」にそれぞれ対応させられないか、と筆者は論じる。それらはちょうど、因縁の師・ハイデガーが世界の四元と呼んだもの——天、地、死すべきもの、永遠なるもの——と鮮やかに対照する。ハイデガーにおける他者との関係性を象徴する概念は「頽落(たいらく)」であり、大衆社会に埋没するひとの様態である。
 一方、アレントは他者へと向かう能動的なかかわりを基点として世界を立ち上げる。愛の内包する矛盾とは、世界や他者とのかかわりにおいて宿命的に表れる問題でもある。西欧思想史におけるこの問題を指摘しつつ、それでもなお、「世界は他者とともに作るもの」だという姿勢。それは、ハイデガーがアレントと袂(たもと)を分かって後、何度か言及しつつも確証し得なかった、単独性の難問を解く鍵のようにも見える。
 アレントは言う。単独性は孤独、孤立、孤絶の三様を持つ。孤独とは孤立ではなく、自分自身とともにあるということ。思考のために孤独は必要だ。一方、孤立とは大衆の中にあって孤独の契機さえ奪われていること。さらに仕事をしているとき、人間は孤絶の状態にあり、自分自身と向かい合うことすらできない、と。透徹した孤独と、世界への愛。両者が引き合う場を開く、大著である。

情報伝達にどれだけ革命が起こったとしても、私は30年後の未来でも〈わたし〉でありたい。

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