1980年代の台湾漫画誌を雑に書く

画像1 1983年の台湾マンガはこんな感じ。マンガ雑誌はほぼ無くなって、漫画審査で全滅な所まで追われた台湾漫画はこんな風の『学習漫画』で生き延びた。結局ある意味、台湾の漫画は娯楽要素より知識要素の方が大事された。今でも同じかもしれない。
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画像5 1985年創刊した『歡楽漫画(半月刊)』。鄭問や麥人傑などハイレベル台湾漫画家はここで半分くらい登場したが、全体的に読者層は青年向けなのに娯楽性は不足、そして雑誌のカラーは全体的に雑なので『すごい作品だけど読みにくい』イメージが強くて上手く続けられなかった。
画像6 1989年創刊した『星期漫画』。台湾漫画史に最後の週刊誌。発行部数は1万部くらい。史上レベル一番高いの台湾マンガ誌と思われてる。娯楽性は高くて、定価も安い。週刊連載になれない台湾漫画かでも『全1巻』の構成で乗り越える所に編集の腕を感じる。
画像7 だが、所詮売上数千部程度で週刊漫画誌を支えるわけが無い。後半になったら編集部にトラブルを感じる、雑誌の構成が雑になっていく、最終盤は週刊の体制を維持できなくなって休刊。それでもハイレベル作品は最後までガンガン出ました。 週刊漫画誌の難関でここまで善戦したのが素直にすごいと思った。
画像8 ちなみにこれは1989年創刊した『少年快報』。簡単で言えば日本週刊漫画誌の海賊版。ジャンプ、マガジン、サンデーとチャンピオンのヒット作を厳選して250ページの海賊版漫画誌。なのに最高発行部数は『23万』止まり。 この数字である意味に分かるんだ。台湾のマンガ市場は日本より遥かに小さい。
画像9 1992年創刊した『龍少年』(月刊誌)。恐らく台湾の漫画家はまだ週刊誌を描く力が無いと思って月刊誌で攻めた。が、妙に『絵が上手いが、漫画として下手』の作品は異様に多くて不評。中学生当時リアルタイム読んだがあんまり面白くないと思った。「漫画力」の肝心はネームと思わせた雑誌でした。

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