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沖縄民謡の魅力

対談をもとに音楽を探るrhyZm。
自身のルーツとは遠いところで生まれた異文化に惹かれる理由はどこにあるのか。
今回は沖縄の楽器、三線を通じて偶然にも“兄弟”となった2人が語り合います。


プロフィール

池田尊 いけだ たける
エイサーを始めとした沖縄音楽に惹かれ、コザ市在住の沖縄民謡の歌い手、松田一利氏(琉球音楽協会 師範/弘弦会 会主)に師事。自身も沖縄音楽の魅力を関東で伝えるため、東京四ツ谷のサウンドスペース「ZIRIGUIDUM」(ジリギドゥン)と川越市にて三線を教える。楽曲制作のエグゼクティブプロデューサーとして活動中。東京都出身、埼玉県在住。

難波裕子 なんば ひろこ
沖縄の文化や歴史に興味をもち、なかでも三線の民謡に惹かれる。東京赤羽にて三線教室を開き、自身も饒邊紫乃氏(よへんしの 琉球音楽協会・野村流音楽協会 師範)のもとで研鑽を積みながら、生徒に沖縄民謡の魅力を伝えている。


池田:裕子さんと僕は三線の兄弟弟子ということになるんですよね。裕子さんの先生、饒邊紫乃(よへんしの)先生の師匠が松田弘一先生で、僕の師匠の松田一利先生も弘一先生の弟子なんです。ちょっと複雑ですけど、兄弟弟子ってことですね。

難波:そうですね。

池田:一緒に演奏したりすることはあっても、なかなかこうしてじっくりお話する機会はないので、あまり緊張しないでいただきたいと思いますが(笑)裕子さんにとっての沖縄や三線についてをお伺いできればと思います。三線をはじめられたきっかけや出会い、なぜ興味をもたれたのかをお聞きしてもよいですか。

難波:振り返ってみると、三線ひとつがはじまりではないんですよね。いろんなことが融合していまに至るというか。私は小学校4年生から6年生までの3年間、お琴をやっていたんです。

池田:箏曲ですか。

難波:はい。生田流の先生に習っていました。その先生は生徒さんのお琴が上手になってくると、三味線を教えるんですよ。教室では私だけが小学生で、ほかの大人の生徒さんは三味線をやっている方も多かった。当時の私はお琴を弾きながら、三味線のほうが楽しそうだなと思っていました。

池田:いわゆる沖縄の三線ではない三味線ですね。

難波:そうです。発表会になると尺八も入って。尺八には全く興味がなかったんですけど、三味線にはとくに興味がありました。ただそのときの私は、楽器のことは好きでも練習が大嫌いだったんです。お琴にしても三味線にしても、教室では演奏するときに正座をしないといけないんですよね。もうそれが本当に嫌で、3年間で辞めてしまいました。それからは中学高校でギターなんかをちょっと触った程度で、大人になるまで楽器にはほとんど触れませんでした。

池田:子どもに正座はしんどいですね…

難波:沖縄に興味をもったきっかけはあるドキュメンタリーを見てからでした。NHKでたまたま放送していた『笑う沖縄 百年の物語』という番組を見て、そこで小那覇(おなは)ブーテンさんとその弟子である照屋林助(てるやりんすけ)さんを知りました。小那覇ブーテンさんは歯医者さんでもあり芸人さんでもある方なのですが、歯科医師の資格をとるために大学進学で沖縄から上京したとき、琉球人ということで差別を受けたんですね。住む家を探しても琉球人なので断られるというようなひどい差別を受けた。そんななか浅草で芸人さんが芸をする姿を見て、ここには差別がないということに気づき、お笑いの道を目指すんです。東京で歯科医師の資格を取り、お笑いの芸に目覚めて沖縄に戻った小那覇ブーテンさんは、開業医をしながら舞台に立ち、三線を弾きながら漫談をやったり歌を作ったりされたそうです。

池田:それは知らなかったな。すごい人ですね。

難波:戦争が激しくなって、民間人収容所に入れられた小那覇ブーテンさんは、たくさんの人が亡くなり人々が嘆き悲しむなかで、三線ひとつ持って収容所内の家々を回った。「生きている私たちが悲しんでいたら死んだものは浮かばれない。私たちは命があるんだから、命のお祝いをしましょう」といって、弟子の照屋林助とともに三線を弾いて歌って励ましたそうです。そして小那覇ブーテンの意志を継いだ照屋林助がまた三線を持って漫談をしたり、「ワタブーショー」というコンビを組んだり、彼のネタには人をなんとか元気にさせようということのほかに、ちょっと皮肉も入ってるんですよね。米軍問題などを漫談やネタに盛り込んだりして。

池田:風刺のような。

難波:はい。私はただ沖縄って癒しの島のように考えていたんですけど、番組で彼らのエピソードを見ることによって、それだけじゃないということを強烈に印象づけられました。どうしても沖縄にはそういう根強い悲しみのようなものがあることを忘れてはいけないという想いがあって、その悲しみを伝えたり癒したりするツールとして使われる三線にすごく興味を持ちました。戦争で物がなくなって、食料の缶でカンカラ三線を作って歌ったなんて話もあるじゃないですか。当時から沖縄に暮らしていた人たちと切っても切れない縁があったんだろうなとか、そういうことを想像するんですよね。

池田:なるほど。そのドキュメンタリーを見て沖縄の歴史や三線に興味を持ったと。

難波:そうですね。でもそれを見たときにはまだ三線には触れたこともなかったんです。何年かあとに家族で沖縄に遊びにいくことになったとき、三線の演奏を見たいと思って民謡居酒屋に行きました。「かなさんどー」というお店で、ちょうどオフシーズンだったので運良く空いていて。漁師さんとか地元の人たちが何人か来て飲んでるような感じでした。ご兄妹で店を切り盛りされているみたいで、ライブもふたりで三線を弾いて歌ったり太鼓を叩いたりして見せてくれるんですよ。お兄さんが弾き疲れたらお客さんを呼んで、ちょっと代わってって地元のおじさんが弾き始める(笑)弾き始めたら別のおじさんが踊り始める(笑)おもしろかったですね。

池田:沖縄らしいですね(笑)

難波:民謡居酒屋では生の三線を聴いて、着物と三線を貸してもらって記念撮影をしてくれて。あとは体験教室を申し込んで、40分か50分ぐらいで簡単に弾き方を教えてくれる教室で三線の演奏を体験させてもらいました。地元のおじーが『安里屋ゆんた』の工工四(くんくんしー:三線の楽譜)を持ってきてひととおり弾くんですよ。で、「ほいやってみろ」って言われて(笑)なにをやってるのかさっぱりわからない(笑)

池田:いきなり(笑)

難波:さっぱりわからないけど、なんとか説明を聞きながら少しずつ弾いて、でも時間なんかあっという間なのですぐに終わってしまって、譜面は持って帰っていいからと言われてもらってきたんですけど、もう一回復習したいと思っても三線が手元になければできない。

池田:そうですよね、楽譜だけあっても…

難波:それでもやっぱりやりたいと思っていたときに、赤羽でたまたまランチに入ったお店に三線教室をやっています、三線の販売もしていますというポスターが貼ってあるのをみつけたんです。すぐに申し込んで、初日から三線を買いました。15,000円ぐらいの外国製のものでしたけどね。もうそれから夢中になって練習しました。だけどそこで教えてくれるのはポップスだけで、私のなかではどうしても沖縄といえば三線の民謡ということがずっと頭にあったので、民謡をどうしてもやりたい気持ちが強かったんです。誰でも知っているようなポップスを歌って、地元のお祭りにみんなで出て、それは楽しかったしいい経験だったけど、やっぱり民謡をやりたいという想いがありました。

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難波:そんなときに「れっど・しゃっふる」というところからお話があって。そもそもはスポーツを主体とした、赤羽のNPO法人の総合型地域クラブなんですけど、そこがスポーツだけじゃなく文化的なクラスも今後増やしていきたいということで、三線教室をやってみないかというお話をいただいたんです。

池田:教室を開く依頼が先に来たんですか。

難波:そうなんです。でも全く三線をやったことのない人に弾き方を教える程度のことなら自分でもできるかもしれないけど、三線がそもそもどういうものかを考えたら、やっぱり沖縄の三線は民謡とともにあったもの、地元の歌とともにあったものだから、民謡を弾けなければ三線を教える資格はないと思いました。人に教える機会をいただけるなんてチャンスだし、お話はお受けしようと決めたのですが、開講するまでに時間があったので、ちゃんと先生について習うことにしました。そのころちょうど銀座にある沖縄アンテナショップ「わしたショップ」で三線教室が始まったんです。今も長く続いていていろいろな先生が教えられていますが、当時はできて間もないころでした。2人の講師がついて月2回で6ヶ月間の教室でした。

池田:半年限定ですか。

難波:はい。月2回のうち1回ずつ先生が変わるんです。2人の講師から交互に教わって、そのうちのひとりが饒邊紫乃 (よへんしの)先生でした。初めて教わった民謡は『祝い節』で、これが民謡の旋律なのかと思いました。そればっかり一生懸命練習して、引きこまれていきましたね、民謡というものに。もっとやりたいという気持ちも強くなって、もう6ヶ月なんかあっという間に終わっていました。これから人に教えることになるかもしれないから教え方も勉強しなきゃいけなかったので、先生のおっしゃることを全部ノートにとって、えらく熱いやつがいるなと思われてたんじゃないですかね(笑)半年間の教室が終わったあとももっと習いたいと思い、紫乃先生のライブを見にいったときに、また教えてくださいとお願いしました。そこから紫乃先生のところでお世話になっています。

池田:なるほど。教えるために教わりにいったということですね。紫乃先生は琉球音楽協会ですし、裕子さんもすぐ協会に入られたんですか。

難波:いや、コンクールを受けることになってからですね。コンクールを受けるなら協会に入らないといけないからということで入りました。自分がまさかコンクールを受けるなんて思ってもいませんでしたし、先生に習って民謡を教わりたいというただそれだけだったんですが、周りの兄弟子や姉弟子がコンクールを受けていることに影響されてコンクールを受けることにしました。

池田:裕子さんが新人賞を受けたときに、僕も優秀賞で受けてたんですよ。

難波:そうでしたね。

池田:独特な雰囲気がありますよね、コンクールって。

難波:できればあの場には二度と行きたくないぐらいイヤなんですけど…(笑)

池田:面接みたいな感じですよね。

難波:舞台の前に審査員席があって、ずらっとこっちを向いて並んでてね。三線のコンクールって和装なんですよね。着物を着ないといけない。男性も女性もなんですけど、女性は着物のうえに髪も結わなきゃいけない。

池田:女性陣は大変ですよね…。裕子さんはいま教室もされて、協会にも入っていらっしゃるし、コロナの状況がよくなってきたらまたコンクールも受けるかと思うのですが、教師免許も取ろうと思われているのでしょうか。

難波:いえ、そこまでは考えていません。優秀賞が取れたら十分なんじゃないかと。最高賞は難しいと思います。コンクールよりいろんな沖縄民謡をもっと知りたい。自由に歌えるようになるのが理想です。私は沖縄の人間じゃないけど、いろんな人たちに歌い継がれて古くから伝わってきたものを、自分にもちょっとだけやらせてほしいなという気持ちです。

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難波:紫乃先生いわく古典というものは型が決まっているからみんなが全く同じようにできるものだけど、民謡はそういうものではないと。(古典とは琉球古典音楽のこと。琉球王朝時代に宮廷音楽として演奏されていた。対して民謡は一般庶民に広まった音楽のこと。ただし明確な線引きはない)昔といまの沖縄民謡では明らかに違いがあると思うんですよね。民謡には決まった型がないから、時代とともにどんどん変化していると感じます。似ている民謡ってたくさんありますよね。でもそれは似てるんじゃなくて、もともと同じだったんじゃないかと思っています。同じ民謡でも歌う人によって全く雰囲気の違う歌になったり、変化しながら伝わってきているのが民謡で、自由なものなんですよ。YouTubeなどでひとつの曲を探すと同じ曲で全く違うものがたくさん出てきたりします。私も生徒さんに、曲ひとつにいろんな歌詞があって、違う歌い方があるとお話しするんですが、みんなキョトンとしてるんですよね。「なんでひとつの歌で違うの」って。なかなか伝わりづらい。

池田:たまたま耳にするものが一番有名な歌詞だったりするだけで、唄者の数だけありますよね、その歌が。

難波:それもまた大きな魅力のひとつだなと思っていて。民謡の自由さがあって、古典という形式美のようなものがあるから、そのふたつがうまくバランスを取っているのかなと思います。


続く


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