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曼荼羅のまち

月に2、3回くらいは本屋を彷徨いて、気になる本を一冊買う。

表紙とか、タイトル、サイズ感など適当な判断基準で、今読むのに心地よさそうな適当なものを選ぶだけだ。

今回その一冊が偶々、細野晴臣の『アンビエント・ドライバー』という短編集であった。御茶ノ水にあるディスクユニオン、引き抜くのが大変なほどぎゅうぎゅうに詰めこまれた本棚に植わっていた。

はっぴいえんど、YMO、スケッチ・ショウ。
音楽家としてのイメージが強くって、細野さんが本を出していたことを知らなかったから、という安易な理由で買ってみた。

彼自身、何か思いついたり感じたことがあればメモ帳やパソコンに、雑破に書き留めるようで、それが所以してか、各文章は1995年から2006年くらいの比較的広い記録になっている。

当書は,音楽家としての姿だけでなく、散歩する彼、渋滞にはまる彼、山を登る彼、ニュースを見る彼など、生活を感じさせる文章が盛り込まれていて、それらは多くの人が語るような“偉人 細野晴臣”の神話と距離があり、親しみやすい。
(無論彼の著作であるから、自ら神話として話すのを彼は嫌がるに違いない)


音楽的な面も知らないことばかりで興味深かったが、意外に強烈だったのは彼の都市観である。私は、元々街に苦手意識があったので、彼のことばによって解けるような感覚があった。
彼の“都市観”に焦点をあて、印象的だった文章を抜き出してみた。

都市で暮らしていると、人と人の間にはビルや店や商品−つまり人間の作ったものしかない。現代社会で人と人との関係がぎすぎすしてしまうのは、そのせいだろう。

『人と人の間に』より

有史以前の人間は、全くの自然の中で生きていた。人と人の関わり合いに木々や川や生き物が介在し緩衝材の役割を果たしていたが、現代都市においてそれらは全く失われ、擬似的な緑だけがある。それもまた人工的なものだ。
どこへ行っても、ひとの思惑が立ち込めていることが煩いから、人の管理下に無い自然が無いから、落ち着かないのかもしれないなと気付かされた。

破壊しているように見えるけれども、大きく見れば、人間が自滅していくだけなのかもしれない。

『自然と人間、そして量子力学』より

この章で彼は“蕩尽”について述べている。
蕩尽とは、使い果たすことを意味することばであるが、此処では何かある事柄が臨界点に達したときに、それ自体が一掃され、またゼロから始まることを意味する。家庭内でなんらかの不満が蓄積していき、溢れた結果、事件が起きるということが例として挙げられていた。

一冊を通して地球規模の問題に対する彼の気組みが切実に伝わるが、特に環境問題や都市化に対して陳ずるのが上記の文章だ。

自然という壮大なサークルの中に人間がいるだけで、生まれ、壊し、作り、滅びていくのは自然の摂理からすれば当然であるにもかかわらず、いつから人間は自らと自然とを分けて考えるようになったのだろうか。

モノが多いと時間がどんどん加速する

『超ひも理論の「響き」』より

ここで言及しているのは素粒子という、物質を構成する小さな単位についてだ。素粒子が二つしかなければそこに時間は存在しない(二つの粒が衝突する映像を逆戻しにしても全く同じ映像になる)が、たくさん集まるとランダムな動きの中に秩序が生まれて、時間が生まれるという。

流動的なエネルギーをあるモノという形に押し込めたとき、それだけ時間に追われてしまうというのは、限界まで建てられるビル、毎秒更新されるニュースやSNSだったりを鑑みても、感覚的ではあるが正しいのではないかと思う。
外にいても、家にいても確実にモノが増えているのがわかってしまうのが緊迫感の原因のひとつではないだろうか。


初版は2006年の当書であるが、18年前に危惧されていたことは現代では更に強力に差し迫ってきている感じがするし、どうにも逃れようがないほど生活に根を張っている。音楽的な贔屓をせずとも細野さんの想像力と、アンテナの鋭さには感服させられた。
また、先述したように私は都市の圧迫感が苦手で、それを嫌いだとしか言葉では言えず、写真で顕そうとしてきたきらいがある。そういう自分の心境を、彼が言語化してくれたようで嬉しく感じた。









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