御手杵との深からずも浅からぬ縁

 駿河島田の刀工五条義助の手になる天下三槍の一、御手杵。
 少し調べたのみだが、その来歴に関しては、私と若干の、うっすらとした関わりがあると知ることができた。なお義助は名物鶴丸を打った国永の弟子筋のため、五条を名乗るようである。
 下総国結城藩(現在は茨城県)の結城晴朝より依頼を受け、義助が鍛えた長身槍。結城はこれを携え、とある戦で落とした敵軍兵将の首を十数個まとめて串刺しにして戦場から凱旋したという。道すがら、その内の真ん中ほどにあった首の一つが落ちてしまい、地面に映った陰は途中が窪んだ手杵のようであった。これに気をよくした結城が手杵の形の鞘を拵え、参勤交代時には行列の先頭に掲げて目立つようにした……というのが御手杵という名の来歴となる。結城は家康の次男秀康を養子に迎え、幕府より越前北ノ荘を領地として転封、徳川の元の姓である「松平」へと名乗りを変更し、領地に良い井戸があることから土地の名も「福井」と改めた。名槍御手杵は、この結城改め「福井藩主松平家」を離れることなく代々受け継がれる。
 しかし実に残念なことだが、御手杵そのものは後に転居した淀橋区大久保において、松平邸の蔵が東京大空襲で焼夷弾の直撃を受け焼失してしまったとのことで、現在はレプリカが結城市の蔵美術館と東松山市の箭弓神社に各一振、その特徴である手杵型の鞘のレプリカが一つ作成され川越市立博物館に所蔵されているのみである。東松山も川越も、結城家所縁であったり、越前松平家の縁者が関わってのことという。

 私自身が縁があるのは主にその所有者たる越前松平家である。おそらく、確認しうる直接の血筋などではない。

 その上屋敷が一時期浅草地区内、現在の台東区浅草橋一・二丁目付近にあったことがあり、その後に大手町の常盤橋近くに移るのだが、屋敷の跡地を浅草福井町と称した。これが戦後の町丁整理まで残り、また当該地内に尋常小学校、のち戦後の学制による変更で中学校を置き、その名に「福井」を冠した。
 私の父がこのすぐ近く、当時は茅町と呼ばれた街道沿いのある老舗の家の生まれで、祖母は尋常小学校、伯父や兄、そして私が中学校の卒業生である。今は隣接校と統合されて移転してしまったが、跡地は区がしばらく建物を残し、近隣他校の建て替え臨時校舎や地区活性化施設などに供していた。それも大正時代の建築ということもあり、2010年には取り壊されて現在は複合商業ビルへと変貌している。
 当時の校地は敷地がほぼ校舎で囲まれた状態でいわゆる校庭などといえるものもほとんどなく、故に校門ではなくダイレクトに校舎の玄関から出入りする様子であったのだが、その玄関脇に「福井松平家藩邸跡地」のような石碑が置かれていた。今もそれは同地に残されているはずである。
 われわれの学び舎が旧藩邸とどのような位置関係にあったかは元禄頃の古地図を精査せねば知れないが、おそらくは御手杵が鎮座していたのと近い場所で、時を超えて我々も黒板に向かっていたものと思われる。

 さて、松平家との関わりはこれのみに留まらない。
 松平を名乗る家柄であるので、徳川将軍家からの待遇は他大名より遥かに高かった。江戸屋敷も、上、中、下と三カ所を許されていたのである。浅草福井町は上屋敷跡地であったが、隅田川を挟んだ向かい側、本所地区内には下屋敷を構えていた。現在そこは小さな記念公園を設置され、稲荷神社がお祀りされている。年の瀬、師走半ばになると義士祭で大層賑わう、旧・本所松坂町。一般には墨田区両国の「吉良邸跡地」で知られる場所である。
 三州吉良の地を治め、塩の産地の領主として名を立てていた吉良上野介。同じく製塩で現在も有名な播州赤穂の浅野内匠頭。京都御所からの江戸城勅使を饗応する担当者同士のトラブル、「松の廊下」の刃傷沙汰に端を発する赤穂浪士事件。浅野の城代家老大石内蔵助を主役に据えた「仮名手本忠臣蔵」は、当時から民衆の心を掴んで話さない一大スペクタクルであった。幕府ご公儀の決断により裁かれた分子を英雄視するため、大っぴらには名を出さず、塩冶判官と大星由良之介の主従として描かれたというのも江戸民衆の「判官贔屓」気質をよく表している。その直接の罪状たる討ち入りの現場となったのが、本所松坂町の吉良邸である。
 この吉良邸、実は今でいう中古払い下げ物件で、当初は越前松平家の江戸下屋敷として建造されたとの由。
 忠臣蔵の話の中で、浪士萱野三平が建造当時の吉良邸の図面を手に入れるというくだりがある。萱野自身は板挟みの苦悩からか、自害して討ち入り参加には至らず果てる。仮名手本では「おかると勘平」として描かれる場面だ。この徒なる恋路の相手が、吉良邸の建造を担当した大工の家の娘、ということになっている。この大工の家では、あくまで「松平様のお屋敷」として扱われる。これが幕府高家筆頭の吉良に下げ渡され、討ち入り事件などを経て現在の小さな記念公園として、首洗い井戸などが史跡として残されたものである。
 ここに御手杵などの刀剣類が蔵置されたとは考えにくいが、上及び中屋敷の移転や改築の際には一時保管などをした可能性もある。
 これがどのように関わるかというと、今度は母方の血筋の話になる。母方の祖父の母、曾祖母にあたる人は鈴木という家の生まれで、祖父が明治中期の生まれであったから曾祖母は江戸末期、すでに苗字を許された家柄であった。大黒柱は鈴木勘右衛門という代々宮大工の流れで、この鈴木が戦前の亀戸天神の社殿なども手がけたと話に聞く。そして鈴木勘右衛門、略して鈴勘が、何代前かは分からないが、越前松平家下屋敷の建設を担当した大工であるそうだ。すなわち私の、元禄時代のご先祖様ということになる。

 IFの話として、結城晴朝が御手杵を打たせていなかったら。家康傍系の結城改め松平家が転封されなかったら。その先の土地の呼び名を改めなかったら。江戸屋敷が、二つで済まされていたら。
 私の人生に大きく関わるものごとが、かなりの部分で現在から見たら欠損を生じると言って差し支えないことになってゆくのではなかったろうか。
 こと私一人ではなく、また係累の一筋二筋の家系のみには留まらないこのIF変は、もしかしなくても、かなり危うい細い間髪の差ですれ違ってしまいかねなかった事をも包含している筈だ。
 赤穂浪士の仇討ち話などはストーリーとしてどこまで史実に沿えたものかは不明な所があるが、少なくとも自分自身に三名槍と呼び声の高かった名物の所有家との縁が二つもあるということは、自分史として大切にしておいてよい項目には違いないだろう。


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