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イノベーションの目的について語るときに我々の語ること

イノベーションを定義、方法、目的の観点からみるとき、もっとも語られていないのが目的だと思う。たぶんそれは、目的なんかについて考え議論してもすぐには役立たないからだ。

世の中でイノベーションが叫ばれるとき、ほとんどの理由は次のどちらかだ。「経済成長」または「企業存続のための利益増大」。国家がイノベーションを語るとき、その目的は国の経済成長なのではないだろうか。企業がイノベーションを語るとき、それは利益増大が目的であることがほとんどなのではないだろうか。利益増大の目的は当然、企業の存続だ。

ところで、生物学ではある同一種の集団を個体群と呼ぶ。例えば、ハトの個体群、イワシの個体群というように。システムとしてみると、企業は個体群、その企業の事業1つ1つは個体と捉えることができる。このとき、イノベーションとなった事業は突然変異個体に近い。個体群(種)が存続するためには個体群を構成する個体が多様な方がよい。環境が変化したときに、多様な個体のうちのどれかがうまく適応し種が生き延びる蓋然性が高まるからだ。これは企業も同じことで、正確には生物以上に速いスピードで変異を起こしていかなければ環境(市場)の変化に適応できない。ある環境に特化、専門化することは、その環境が続いているうちは優位に立てるが、環境が大きく変われば絶滅しかねない。つまり、特化は脆さを高める。実際、いまの人類が他の人類が絶滅するなか生き残ってきたのは、身体を環境に適応させるのではなく、服をはじめとした道具で適応を外部化することにより、環境変化に柔軟に適応できたからだ。ある種が似た個体しか作らなければ、環境変化に適応できず、長期的な繁栄はおろか絶滅しかねない。だから生物には、コストが高くても、有性生殖をはじめ多様性を高める仕組みが数多く存在している。企業もある1つの事業に依存していたり、似た市場に適応した似た事業ばかりでは、時代の変化に適応できず絶滅の蓋然性が高い状態になってしまう。たしかに、イノベーション(変異)は企業(個体群)が存続していくで間違いなく必須だろう。

生物学の1学問である生態学は、実は、森とか海とか食物連鎖とかの学問ではない。生態学は本質的にはシステムについての学問だ。システムとは、互いに影響し合う要素のまとまり、全体のことだ。生態学の知見は、かなり高い精度で他のシステムにも応用可能なのではないだろうか。そういうわけで、少し生態学の世界に寄り道しよう。

生態学の世界では、1972年に事件が起きる。Robert May氏が複雑な生態系ほど不安定であるという理論予測を発表したのだ(Will a Large Complex System be Stable?)。それまで、直観的に複雑な生態系ほど安定だと考えられてきたので驚きは大きかったようだ。この論文から生まれた問いは、「じゃあ現実に存続している複雑な生態系を安定させるものは何なのか?」だ。この答えを明らかにしたのが近藤倫生氏だ。近藤氏は、Robert May氏の数理モデルが表現する生物種の多様性に加えて、生物種間の関わり合いの多様性を考慮した数理モデルをつくった。その結果、生物種間の関わり合いに多様性があるとき、生物種が多様なほど生態系が安定になることが明らかになったのだ(Diversity of interaction types and ecological community stability)。具体的には生物種間の関わり合いとして敵対関係と相利関係の2つを設定し、その比率を変化させながら生態系の安定性を確かめた。結果をみると、相利関係が全関係のうちの70~80%を占めるとき、生態系は特に安定となった。相利関係とは、イソギンチャクとそこに共生するクマノミの関係、植物とその果実を食べつつ同時に種子を遠くに運ぶ役割を果たす動物の間の関係など、互いの増殖を支え合うような関係のことだ。おもしろいのは、種間関係が相利関係のみになると生態系の安定性は限りなく低くなっている点だ。一見よく見える相利関係であっても、それに偏りすぎれば生態系は脆くなってしまうのだ。一般化すると、要素間の関係が多様で、要素も多様なとき、システムは安定になる。そしておそらく、要素間の多様な関係の中から、ある要素の行き過ぎた増大を抑制するフィードバックループが発生する。

話を戻そう。個体群と企業が異なる点は2つある。1つは、イノベーション(変異)に目的があるかないかだ。生物の変異(イノベーション)は目的がなくランダムだ。だから突然変異と呼ばれる。目的がないというのは、意思によっていないということだ。我々、人間ですら、X MENのように変異したいと願ったところで、そうした変異を自らにも子どもにも、今のところ起こせない。一方で、企業にとってのイノベーションには、企業存続のために利益を増大するという目的がある。2つ目の違いは、上位の層にあたるメタシステムに存続の意思があるかどうかだ。個体群のメタシステムである生態系は、それ自体に存続の意思があるわけではおそらくない。個体群は、生態系にとっての存続のための手段ではない。対して、企業のメタシステムである人間社会は、それ自体の存続を求める意思がおそらくある。企業は、人間社会の進歩と存続のための手段にすぎない。この2つの相違点は重要なはずだ。

企業がイノベーションによる利益増大を目的(目標)とするのは悪ではないだろうが、イノベーションは不確実性が高く困難なものだ。だから、利益増大が目的になっている企業は、イノベーションによらずに人間の低次な本能的欲求や、報酬系にドラッグのように訴え中毒化させるビジネス、すなわち新しい価値や多様性を生み出さないビジネス、そしてときには倫理に反する人間社会に害悪なビジネスを行ったりする。こうした例は、数え出せばキリがない。そうした企業は、人間社会というシステムにとっての癌細胞に他ならない。そうした企業は人間社会の免疫細胞的な力によって必ず制裁をくらうことになる。企業にとって、利益は目的ではなく、新しい価値を創造するための手段として認識されていなければならないわけだ。企業は、人間社会というメタシステムからみたとき、その存在に必然性はないのである。実はこのことを、Peter F. Druckerが主著『マネジメント』で指摘していた。

社会や経済は、いかなる企業をも一夜にして消滅させる力を持つ。企業は、社会や経済の許しがあって存在しているのであり、社会と経済が、その企業が有用かつ生産的な仕事をしていると見なすかぎりにおいて、その存続を許されているにすぎない。

日本は寿命が世界1長い国として知られているが、その寿命は人間だけのものではない。企業の寿命も世界1とされているのだ。その理由は、ときに利益を悪として捉えてまで本来の目的に執着していく、古き良き日本の道徳心にあるのではないかと思わずにはいられない。この代表的な経営者は稲盛和夫だろう(稲盛和夫に学ぶ経営としての会計)。

人間社会の免疫機能は、行政や司法、他の様々な企業、スタートアップなどが担っているようにみえる。中でもスタートアップという現象は、生態学にとっての新種の繁栄に類似している。新種が繁栄するパターンの1つに、他の種に利用されていない資源、ニッチを起点にするパターンがあるが、これはスタートアップ界のバイブルであるPeter Thiel氏の『ZERO to ONE』が主張する独占による繁栄と同じだ。そうして生まれるスタートアップは、既存の大企業を破壊して、人間社会システムの多様性を増す働きをする。システムが安定性を高めるうえで、新しい要素の出現とそれによる多様性の増加は重要なのだろう。

そうはいっても人間は弱い。それは感情のせいかもしれない。Erich Frommが『自由からの逃走』や『愛するということ』で明らかにしたように、孤独の恐怖や不安から逃れるために、人間は同質の集団を選り好みし異質を嫌う。他者を支配したり、他者に支配されることを好む。一神教や独裁政権、サディズムとマゾヒズムはもちろん、科学の世界にさえこうした態度は見受けられる。人間のこの習性が、思考そして行動を単一に固定化し、ときに極化していく。多様性が許容される余白はなくなっていく。そうして、ネガティブな意味でわかりあえない集団に分離していき、対立を生み不毛な争いをする。生態系を大切にする意識はとても大切だが、我々が思っているよりも生態系はロバスト(頑強)だろう。生態系に比べたら、人間社会はまだまだ脆い。

人間社会システムに、要素と要素間関係の多様性をもたらしたり、負のフィードバックをしたりすることで、人間社会の安定性を高め、人間社会の持続性を増していく。それが、人間社会システムにとってのイノベーションの目的なのではないだろうか。

Druckerは『マネジメント』の中で次のように断言している。

企業の目的は顧客の創造である

顧客の創造とはイノベーションのことだ。Druckerは、企業に対し、単に顧客のニーズに応えるような受け身なビジネスではなく、主体的に新しい価値を創造していくことを求めた。人類が再びナチスのような全体主義に陥らずに幸福な自由な社会をつくっていくことを切に願っていたからだ。

突然変異種の誕生はそんなに簡単には起こらない。イノベーションは、それに比べればはるかに速いスピードで起こしていける。企業がイノベーションの目的を再考し、果敢に挑戦していけば、生態系も羨む速さでロバストな人間社会をつくっていけるはずだ。もちろん、スタートアップというイノベーションを目指す(ほぼ)個人もとても重要だ。これは余談だが、もしかすると、イノベーションを目指す個人には仏教が助けとなってくれるかもしれない。

仏教は宗教とされることが多いが、一神教と同じく宗教と括るならそれは間違いだ。一神教は絶対的で、神への服従を求める。仏教は、釈迦が筏の譬えで伝えた通り、絶対的なものを否定する。これは仏教を宗教と思い込んでいた人にとっては雷に打たれたかのような衝撃を与える(筆者がそうだった)。もし絶対性を宗教の必要条件とするなら、もう仏教は宗教ではない。釈迦は、自分の教えも絶対的なものではないし、それを解体し、再構築していかなければならないと伝えたのだ。この教えにより、仏教には釈迦の教えから守破離的に離れた宗派が数多く生まれ続けていくことになる。仏教は、ある考え方に極化したり、固執したりすることを決して許してくれない。だから仏教は、人間の脳神経システムにおけるフィードバック機構となるわけだ。仏教は人間の思考に、既存の枠組みを脱構築していく圧力をかけてくれる。まさに、イノベーションを生む思考そのものだ。

人間にとって絶対的なものを否定し、脱構築し続けていくことは簡単ではない。強さが求められる。実際、絶対性を否定できる人は明らかに少数派だ。でも、だからといって諦めていいのだろうか。人間の醜い争いはほとんど絶対視による対立から生まれている。絶対視から抜け出せたとき、人類は真に賢いHomo Sapiensになれるのではないだろうか。

幸い、人間には素晴らしい才能が与えられている。なにかを創造することで幸福になれる才能だ。Bertrand Russellの『幸福論(幸福の獲得)』風に、創造は建設と言い換えてもいい。これは明らかに人間の素晴らしい才能の1つだ。少しでも多くの個人が絶対視から抜け出し、イノベーションを創造していくとき、人間社会ははるかに素晴らしいものになり、持続していくものになるのではないだろうか。

これ頂けたときはいつもiMacの前に座ったまま心の中でパーリーピーポーの方々みたいに踊って喜んでます。基本的に書籍の購入費に充てさせて頂きます。