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33歳で身体障がい者になった私の社会復帰までの全記録1

§1すべての始まり

現在私は45歳独身街道絶賛驀進中である。(笑)

そして泣く子も黙る身体障がい者1級である。(障がい者手帳取得済み)

それはさかのぼること、12年前右脳視床出血

緊急搬送の後、手術、IcUで昏睡状態

そのごいくつもリハビリ病院を経て

左半身まひ(いわゆる片麻痺)

先天的でなく、成人してからひじょうに稀有な経験をしたわけで

記憶が確かなうちにかき綴って置こうと思いたち、

今回書き記すこととしたものである。

§1すべての始まり

  • ~発症から緊急搬送まで

私にとってわすれえぬあの日
それは2010年3月14日それは、
めでたくも(?)父の60歳の誕生日、日戎橋のH&M開店して行列ができた日
そして
私の右脳視床の血管が破裂した日
私がまだ健常者だった日。
今回はその日のことを書こうと思う・・・・。いわばその日の日録である。
その日は確か日曜日で私は美容院にカットとカラーの予約をしていた。
大学時代から通っていた、
近鉄長瀬駅前の美容院が
移転して難波道頓堀に出店するというので、
松浦さんも是非とお誘いを受けた。
「ええいいですよ」と二つ返事オッケーして、
いくことになったのである。
ちょうどその時交際していたMが
「私も行きたい」というので
予約の変更をして、
ふたりで尼崎から、なんば線に乗って難波に向かった
難波の美容室で髪を切る
そのことばの響きだけで、
胸躍ったのを覚えている。
折り悪く雨が降っていたので、
道頓堀のドラッグストアでビニール傘を買った。
思えばそれがさいごの買い物で、
以後10年間自分でかいものができなくなるなんてしるよしもなかった。
美容院の担当さんとウダウダいいながら、カットとカラーをしてもらい、
彼女はまだかかるというので、
先に店を出て歩いて
(そう!その時は自由にあるけたのだ!)
Appleストア心斎橋で
iPhoneのケースを買った。
そしてみせの近くの喫茶店でコーヒーとたばこ(そう!その時はまだ喫煙者だった・・。)
コーヒーをのんで彼女を待った。
それから二人で難波をブラブラして(以後10年間も 女の子と難波をブラブラできなくなるなんてしる由もなかった・・・。)
それから6時位にじたくのある尼崎に帰ってきた。
時間も時間になったので、夕食に阪神尼崎高架下の高架下で串カツを二人で食べた。

そして、本当に珍しいことなのだが、
その時はハイボールも飲んだ。
それから二人で部屋に帰ってテレビを見ていたと思う。
寝る前にトイレに入った。
その時だ!右脳視床の血管が破裂したのは。
その時はよくわからないが目の前に赤の世界が広がった。
それはきっと、視覚を司る視床の血管が破裂したからだと思う。
それから左半身が動かなくなった。
倒れはしなかったが、
動けなくなった。
どうやって、トイレからでたのかおぼえていない、
おそらく這って出たのだと思う。
ほうほうの体でベッドまで戻る。
M;大ちゃんどうしたの?
私;左半身が動かへんねん!
M;大丈夫??
彼女が心配そうなかおで見ている。
それから、枕元のガラケーを手に取り
母に電話した。
やはり頼るべきは母である。
私;もしもしさっきから左半身が動かへんねん!
どうしようこわいよ・・。
母;どうしたの?お酒飲みすぎたんちゃうの?
母はあくまで冷静である。
母:
とりあえず救急車よびなさい
いまからそっちに行くから。
電話を切って、119番に電話した。生まれてはじめての119番通報である。
119番;はい!119番です事故ですか?救急ですか?
私;救急です。さっきから左半身が動かないんです。
隊員は痛みはあるか?意識はあるかの確認をし、でんわを切った。
とりあえず救急車が向かうので安静にしてろという。
救急車が来るまでの間に二度ほど嘔吐した。
これはいったいどうしたことか?きっとさっきのんだ飲み慣れぬハイボールのせいか?だと思った、
はたまたくも膜下出血か?
でもくも膜下出血なら強烈な頭痛がともなうのでそれはちがうと思った。
(それにしても冷静な私である・・・・。)
遠くから救急車のサイレンの音が近づいてくるのがわかった
あれはきっと、わたしの乗る救急車のサイレンの音なのだろうか・・。続く(後編へ)


































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