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第15週:ボー(行け/来い)

(パラシャット・ハシャブアについてはこちらを)

基本情報

パラシャ期間:2023年1月22日~1月28日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 10:1 ~ 13:16
ハフタラ(預言書) エレミヤ書 46:13 ~ 28
新約聖書 ルカの福音書 2:7 ~ 30
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

私たちには自由意志があるのか?(下)
ユダ・バハナ

ユダ・バハナ
(エルサレム)

先週のパラシャでは、心が硬くされている間、ファラオの自由意志にいったい何が起こったのか、について触れた。
また申命記30章19節の「(死ではなく)いのちを選べ」という聖句から、神は私たちひとりひとりに対して、神の正しい道を歩むか否かを選択する力を与えられた、ということを学んだ。自由意志は神から与えられた賜物である、という話もした。 

あの時、ファラオには自由意志があったのか?

先週のパラシャから取り組んでいる、この神学的疑問はこのパラシャの冒頭部にも顔をのぞかせている。

主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。

出エジプト10:1

神がファラオの心を硬くしたのであれば、心が頑なになった状態はファラオの選択・自由意志から生まれたものではない。では神はファラオの自由意志を侵害することなく、どのように彼の心を硬くしたのだろうか。 

神は全能であり、私たち人は決して全能な存在ではない。そして人が誤って、自身を無限の能力の持ち主であると考え、それに対して責任を果たそうとしない時、それは他人に危害を加えることとなる。多くの強力な指導者が何百万人もの人々を傷付け、命を奪ってしまったことを、人類史は知っている。 

古代エジプトにおいてファラオは、神のような存在だった。神格化されたファラオは、エジプトのパンテオン・主要な神々のなかでも重要な役割を果たしており、ファラオは全能とされていた。
したがって誰も彼を批判したり、何かを命じることはできなかった。政治的な統治者だけではなく崇拝の対象でもあったことを考えると、ファラオの自尊心は私たち一般市民の持つそれとは比べ物にならないほど、高かっただろう。
10の災いによってエジプトはどんどんと荒廃していったのだが、それはファラオの自尊心が引き金となったもので、彼に率いられたエジプトも衰退の一途を辿ることとなった。 

そんな背景を考えると、モーセがファラオの前に現れ自身を主の祭司であると称し、奴隷の民の解放を要求したことは、途方もないことであり、ファラオもそんなことが起こるとは、想像もしていなかっただろう。 

さて神の命じた通りに動いていたモーセはファラオに対し、神の民であるイスラエルを奴隷から今すぐ解放するように、とは要求しなかった。神が現れ、イスラエルびとに対して荒野を3日間進み、いけにえを捧げて神を拝するよう命じた、ということをファラオに伝えるよう、モーセは命じられていた。
この言葉・要求はうさん臭く、罠のように聞こえるのはいたって自然である。

あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』
しかし、エジプトの王は強いられなければあなたがたを行かせないことを、わたしはよく知っている。

出エジプト 3:18~19

そして実際にファラオは、モーセがイスラエルの民の完全な解放を望んでいる、と感じていた。そしてモーセが3日間だけ荒野に行くだけだといった際、モーセが嘘をついているのだと考えた。

そして最初の段階では、ファラオはモーセの言葉にすら耳を貸していなかった。
その理由の1つは、ファラオの呪術者たちがモーセと同じ奇跡を行ったことにある。神はこの時点では、ファラオの呪術者たちに秘術を行う力を与えられていた、ということだ。
ファラオはモーセを、才能ある呪術者として見ており、それ以上の存在とはしていなかった。 

ファラオが行った、モーセとの交渉―

そしてファラオがモーセに耳を傾け始めると、交渉のテーブルについた彼はモーセと取り引きに関する条項について話し合い、交渉を始めた。
もし彼らが本当に神を拝するために行くのであれば― 誰に対して行く許可を与えるべきか。いつ・どこに、どれぐらいの期間になるのか。エジプトに戻ってくるための人質として、何を残しておくべきか。
こうしてファラオは、交渉を通じての解決案を模索した。 

最初にファラオがモーセに提案した案は、(奴隷からの休暇を取り)少し荒野に行って神を拝しつつも、イスラエルびとはエジプトには残る、というものだった。しかしモーセは、この案を拒んだ。

そして次の『ファラオ案』は、いなごの大群という次に起こるであろう災い・恐怖が提示された時であり、その時はすでに7つの災いを経験し、エジプトの家臣たちの心は折れていた。
そこでファラオは、家臣たちから強い進言を受けていたことだろう。

モーセとアロンはファラオのところに連れ戻された。ファラオは彼らに言った。
「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」

出エジプト10:8

こうしてファラオは交渉のテーブルに再びついた。
1度目の交渉はモーセによる拒絶により決裂しているため、2度目ではファラオから譲歩する必要があった。そこで彼は自身で条件を提示することなく、モーセに対して問いかけている。 

モーセは答えた。
「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」

「さあ、壮年の男子だけが行って、主に仕えよ。それが、おまえたちが求めていることではないか。」こうして彼らはファラオの前から追い出された。

9・11節

ここでファラオはモーセに対して、心理的な作戦・ゲームを展開している。モーセは全てのイスラエルびとが、彼らの所有物を持って荒野に行き、主を拝すると言った。ここでファラオは罠だと悟り、成人の男性のみが行って主を拝するよう要求した。恐らくファラオはモーセ側も譲歩案を飲んで歩み寄り、同意することの望んだのだろう。 

そしてこのファラオの言葉・オファーは、ある程度公平なものだ。支配している側が(人権のない)奴隷の民に対して、全ての男性を送り出すことにたいしてゴーサインを出しているのだ。しかしモーセは、この妥協案ですら受け入れることは出来なかった。 

そして暗闇という9つ目の災いの後、憔悴していたであろうファラオはモーセを呼び出し、最後の妥協案を提示した―

ファラオはモーセを呼んで言った。
「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。
妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」

24節

ファラオは老若男女を問わず、イスラエルの民全体に対して休暇を与えるが、彼らが休暇から戻って来るのを保証するため、家畜だけを置いていくよう要求したのだ。
それに対してモーセは、完全な自身とともにファラオにこう言った。

私たちの家畜も私たちと一緒に行きます。
ひづめ一つ残すことはできません。
私たちの神、主に仕えるために、家畜の中から選ばなければならないからです。

26節

どれだけの家畜を置いて行き、どれだけの家畜を主を拝するために連れて行くのか、どれぐらいの割合・パーセンテージか―
モーセはこのまま交渉を続けることは出来ただろう。この時点でファラオは、イスラエルの全ての人を送り出すことを了承していた。
モーセは細かい詳細にフォーカスすることなく、次のように言った。

「あちらに着くまでは、どれをもって主に仕えるべきか分からないのです。」

同節後半

モーセはファラオに対して、
「何も残していくことは出来ない。なぜなら、神が何を(いけにえに)望んでいるのか分からないからだ。したがって私たちは念のために、すべてを携えて行く」
と、伝えている。

このモーセの言葉は本当のことを率直に伝えたものなのだが、ファラオの耳には見え透いた嘘としてしか聞こえなかった。神を拝したい=いけにえを捧げたい、と言い出したモーセがどうして何を捧げるべきかを知らないのか。神への仕え方を知らない祭司など、存在し得ようか。

こうしてファラオは、モーセは神を拝するために出るのではなく、イスラエルびとを連れて逃げるための口実に過ぎない、との結論に至った。

ここでファラオからの観点に立ってみよう。彼はこの時点で全てをあきらめており、一時的であるにせよイスラエルを去らせることにも了承していた。しかしそれを要求するリーダーのモーセは、人質はもちろん物すらエジプトに残しておくことを飲まず、自分の神への仕え方すら知らないのだ。それを考えると、神への礼拝というのは口実に過ぎず、本来の目的は逃亡だった、と考えたファラオの思考回路はいたって正常ではないだろうか。 

これらのポイント・疑いが、ファラオの心を硬くしたのだ。 

私が思うに、(出エジプトの物語を通じて)ファラオは完全な自由意志を有していた
「神がファラオの心を硬くした」というのは、何も神がファラオの頭の中に直接介入し、超自然的な形でファラオの心を硬くした訳ではない。神はモーセと人の持つ心理的傾向や疑いを用いて、これをされたのだ。
なので神が引き起こしたのは、ファラオに疑念を持たせることだった。 

ファラオの問題は彼が自身を神、絶対的な統治者とし、それ故に交渉で上に立たれる/負けるということを全く知らず、それに慣れていなかったことだ。
そして彼の持つ(地上における)威厳と、高い地位が彼にとっては足かせとなった。ファラオの心理状況を的確に表した、聖句がある。

高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。

箴言 16:18

スーパーマンのように強く、何にも依存しない存在になろうとした時や、そうなったと自身で過信した時、そこにはたいてい失敗が待ち受けている。
依存しない・独立した存在になろうという気持ちは、私たちが生まれた時から持った自然な性質であり、それ自体は健康的な欲求・望みである。しかしそれには、そこの気持ちに取りつかれず、生きる上でバランスを保らなければならない、という但し書きがあるのだ。 

自立することは良いことだが、私たちには親や子供などの家族、そして友や共同体という社会の一部であり、単独・ただひとりで存在している訳ではない
私たちは①与える時もあれば、②与えられる時もあり、人が生きるということは双方通行だ。私たちが他の人のために何かし、他の人を育てた時、それは自分に返って来る。周りの人が自分のために何かをし返してくれ、自身に投資や手間を掛けてくれ、育ててくれるのだ。 

その点ファラオは、他人が自分にする/与えられる/受け取るという、自身を中心とした一方方向しか知らなかった。他のために何かを与えたり、何かをあきらめ犠牲にしたりということを知らなかった。そしてそれが結局、自身が引き連れた軍隊を紅海の底へと沈めることになったのだ。

自分の内に持つ光を隠さない―

今週のパラシャで感じた、もう1つのポイントを短く共有できればと思う。
現在モーセはユダヤ人にとって「我らのラビ・モーセ」として知られているが、吃音症・どもりという問題がありながらも、奴隷の民を自由の民へと変わるために鼓舞し率いた。そして吃音症がありながらも、世界で最も強力で残酷な王と対峙し、同胞たちを解放するため冷静に交渉を進める必要があった。

そしてそんな吃音症を持ったモーセは、出エジプト後も神に用いられ、40年に渡って神から与えられたトーラー(教え)をイスラエルの民に対して、教え続けた。 

吃音症を持ったモーセがこのような偉大な使命のために用いられた神は、私たちをも十分に用い、使って下さる。
私たちも人生のなかで各々の「吃音症」があるだろうが、家族や共同体・職場などの身の回りのなかで、リーダーや教え手または違った人材として、神ご自身により用いられるのだ。

神はイェシュアによって新しく与えられた命を、私たちに持たされた。したがって私たちがそれぞれ持っている光を、熟知しておられる。私たちがたとえ「吃音症」を持っていたとしても、私たちが持つイェシュアの光を下に隠すことなく高く持ち、その光をもって周りを照らすべきなのだ。

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