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第4週:ヴァ=イェラ(そして現れた)

(パラシャット・ハシャブアについてはこちらを)

基本情報

パラシャ期間:2022年11月6 ~11月12日
通読箇所:

  • トーラー(モーセ五書) 創世記18 ~22章

  • ハフタラ(預言書) 列王記第一4:1 ~4:37

  • 新約聖書 ルカによる福音書 17:26 ~37
    (メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

神と会話をしよう
 ヨセフ・シュラム


ヨセフ・シュラム師
ネティブヤ(エルサレム)

創世記を読むのはとても楽しく、それと同時に骨の折れるチャレンジでもある。読むたびに、何かしら新しい何かを学び、それを消化しないといけないからだ。創世記を彩るエピソードや人物たちは「聖書物語」として、主に子供達を楽しませるためによく読まれる。しかしよく考えると、これは本当に不思議なことだ。なぜならこれらの子供向けの「聖書物語」は私たちを挑戦してくる事柄・疑問であふれており、私たち大人にとってもとても濃厚なレッスンになるからだ。 

毎週のパラシャ(通読箇所)のタイトルは、その箇所の最初の単語から取られている。そして今週のパラシャのタイトル「Vayera(וירא)」の意味は「彼は現れた」だ。

主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。

創世記18:1 

マムレの樫の木のそばにいたアブラハムだが、先週のパラシャで学んだように彼の横には千人以上のキャラバン(隊商)が居た。そしてアブラハムは、この大所帯を束ねる首領だった。そんなリーダーが、全くの見知らぬ三人を自らもてなしたのだ。

中東風の「おもてなし」

典型的な中東レストランの前菜
食べきれない量を出すのが中東の『礼儀』

これは中東世界特有の、イスラエル人にとっては今でも馴染みのあるもてなしの作法だったりする。しかし彼は幕屋の入口から走って行って彼らと会い、地にひれ伏してこう言った―

主よ、もしよかったら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなた方の足を洗い、この下でお休みください。少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。

創世記18:3~ 5

この聖句から、アブラハムは『21世紀を生きるイスラエリー』ではないことが分かる。現在ネゲブ砂漠に生きるベドウィンが、もし全くの他人が自分たちのテリトリーに入ってきたとしたら、銃を手に出てき丁寧ではあるが鋭い声でここから立ち去るよう言うだろう。
現在、ベエルシェバの北に広がる北ネゲブのベドウィンの集落は無法地帯と化しており、イスラエル警察でさえそこをパトロールすることに躊躇するような状況だ。 

さて、テキストに目を戻そう。並外れた謙虚さを有していたアブラハムは、自身を卑下して3人の客人たちを迎えようとした(18:3~4)。そしてここで重要なのは、この3人の赤の他人をアブラハムはサラの力を借り、自分自身で給仕をした点だ。ヘブル人への手紙はこう記している―

兄弟愛をいつも持っていなさい。
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。
こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。 

ヘブル人への手紙13:1~2

この書簡の筆者は、明らかにこのパラシャにあるアブラハムの行動について指し、人をもてなす重要性を教えている。教会・コングリゲーションの長老の条件の1つが、もてなす人であるということは偶然ではない。

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり…

テモテへの手紙第一3:2 

かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、

テトスの手紙 1:8 

これらのテキストから、主の群れを率いる立場にいる人物は「もてなしの人」でなければならない、というのがハッキリ分かる。
私は1960年代、イェシュアをメシアと信じたために家族と住む家を失い、遠くアメリカの地でホームレスとなったが、その時には多くの教会のリーダーたちの「もてなし」に助けられた。しかし現在は西洋の個人主義が私たちの信仰や信仰によるコミュニティーにも影響しており、この聖句に忠実になる必要性は増しているように思う。

私が着た初めてのセットアップのスーツは、ケンタッキー州南部に住む親愛なるメソジスト派の姉妹により贈られたものだ。冬用の2着目のスーツは、クリスチャンではないがユダヤ教正統派の男性2人からのプレゼントだった。彼らはテネシーで繊維業のビジネスをしており、私はイスラエリー特有のフツパ(厚かましさ)で「なぜあなたたちはイスラエルにアリヤ(帰還)しないのだ?」と議論を吹っ掛けたのだが、彼らは笑みを絶やさず私をデパートに連れて行き、上下セットのスーツをあつらえてくれた。

中東の血(ルーツ)を持つユダヤ人やアラブ人を主に導く、伝道師になりたいのであれば、おもてなしは1つの必須条件になるだろう。 

神に楯突いたアブラハム

さて少し聖書に関する話をしよう。アブラハムはその三人の旅人のうちの一人が、神ご自身であることを知らなかった。この事実はユダヤ人の聖書解釈者にとっては、大きな問題だ。非ユダヤ人であれば、これをすんなり受け入れられるかも知れない。しかしユダヤ人にとっては由々しき問題だ。神自身が肉なる形で地上に降りられ、その神の足が人の手によって洗われ、パンとバターと肉を食べてアブラハムと話をし、神がそのご計画を明かした時には、ソドムへの裁きにたいして神と交渉し値切ることを、人に対して許された。

その時、アブラハムは次のように言い神に食い下がっている。

あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼしてしまわれるのですか。

創世記18:23 

神に楯突くとは!!

しかし、ここでは最も素晴らしい結末が待っていた。アブラハムは神に対して反論したのだが、それは神によって受け入れられ、それによって神はソドムに対して考えられていた計画を変えることとなったのだ。神はアブラハムの正しい反論に対して、聞く耳を持たれていた。 

ここのアブラハムの神への反抗・反論は、このストーリーの続きを考えると不思議なことだ。
自身の愛する息子イサクを捧げることに関して、ソドムの時とは対照的にアブラハムは神に対して何も言わずに従った。ソドムを救おうとしたのにイサクを救おうとしなかったことから、ラビたちの間では創世記22章以降は神がアブラハムに語り掛けることを止めた、神はアブラハムとのやり取りを断った、と考える解釈もある。

たしかにイサクを捧げようとした創世記22章以降、アブラハムに対して神が語り掛けたという記述はなく、これはそれまでの両者の対話を考えると不自然でもある。それに対するラビ的解釈のなかの1つは、神がイサクを捧げようとした事例以降アブラハムとのコミュニケーションを止めた、と推測している。
これが本当かは分からないが、1つの解釈としては興味深いと私は思う。

まとめー

さてこのパラシャ(通読箇所)から学べることを、まとめると次のようになる―

  1. 神は肉体という形を取って、普通の人として地上に現れ、その足を洗われ食物を受け取り食べることができる。(このポイントは新約聖書にも繋がっている)

  2. 神は自身の義なる僕たちのことを考慮し、自身の計画をそんな僕たちと共有される。その計画の結果が僕たち自身、また彼らのコミュニティーに影響を及ぼすのであれば、特にそうである。

  3. 神は義なる僕との会話を心に留め、訴えに対しても耳を傾けられ、時としてはその計画・御心を変えられもする。モーセのとりなしにも、エリヤにも、レバノンの未亡人にも、神は彼らの訴えを聞き、その心を変えられた。今日のパラシャから学ぶことは、私たちも、イェシュアの命と犠牲により彼の義にあずかり、神の子供とされた。したがって神と話し、時には語り掛け、反論することができる。このことは私達の祈りの生活を大きく変える。祈りはリクエストだけでなく、意味のある会話、正直な心をぶつけるやりとりなのだ。もちろん最終的には義なる裁き人である神の決定を受け入れる必要があるが、神と対話する重要性はこのパラシャにおける重要なテーマであり、私たちが受けるべきレッスンである。

  4. もちろん信仰はもっとも大切なことであり、アブラハムがイサクをモリヤの山で捧げた時に、彼は自身の信仰を十分に証明した。しかし知性を全く無視した盲目な信仰は、神とイェシュアに受け入れられるとは限らない。盲目な信仰や十分な思考力を伴わないまま行ったことに対しては、イスラエルの全能の神や彼のひとりごであるイェシュアが、それをよしとされるかについては疑問である。
    神は私たちが意思や思考力を持たない、神のロボットになることは望んでおられず、それは神が人を創造した目的・意図に反している。神はご自身の息子たちが自分たちで考え、そのうえで自ら選択して父の心に従うことを望んでおられるのだ。

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