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パラシャット・ハシャブア入門

ユダ・バハナ師
(エルサレム)

パラシャット・ハシャブアとは?

英語では「Weekly Torah Portion(毎週のトーラーの箇所)」とも言い、トーラー(モーセ五書)を54に分けて毎週読んでいく習慣のことを指す。
私たちユダヤ人には、その週に当たる箇所(パラシャ)を1週間掛けて読み進める習慣がある。1年を掛けてトーラー全てをカバーするこの通年朗読は、秋のスコット(仮庵の祭り)の直後にある、シムハット・トーラー(律法授与祭)の祭りから始まる。

パラシャの区分は全てのユダヤ人の間で共通になっているため、世界中のシナゴグで同じ聖句が読まれ、同じ聖句に関するメッセージが語られるのだ。そしてそれぞれのパラシャは、第1節目の最初の単語、または第1節目にある重要な単語で呼ばれている。
(例えばヘブライ語の聖書では創世記1章1節は、「はじめに」を意味する『ベレシート』という単語で始まっているため、その節から始まるパラシャの名前は「ベレシート」になっている)

これには歴史的な理由がある。
というのも聖書を章・節に分けた最初の人物は、スティーブン・ラングトン(1205年)であり、それまでは何章何節という概念は存在しなかった。それ以前に、聖書の中のある部分を引用して伝えたい場合は、その最初の単語やひと下りを読むことで皆がどの聖句かを理解していた。
ちなみにシナゴグで朗読されるトーラー・スクロールには、未だに章や節による区分はない。したがってその週のパラシャの名前=最初の単語は、巻物を広げた時に朗読箇所を探すのに役立っているのだ。

トーラー・スクロール(巻物)が書かれている様子。
章・節の番号がふられていないのが分かる。

マタイの福音書27章では、イェシュア(イエス)が十字架の上から

「エリ・エリ、ラマ・サバクタニ」
(わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てたのか)

との言葉を発している。

この聖句に関しては、誰がイェシュアを見捨てたのかや、それがなぜなのかに関して、長い神学的議論がされている。
しかしこの一節に関して、また違った見方もできるのではないだろうか。このイェシュアの言葉は、詩編22篇の最初を引用したものだ。

前述のように、イェシュアが生きた1世紀には章や節は存在しなかったため、パラシャの名前と同様、出だしの単語を使ってお互いにどこを引用しているのかを伝え合っていた。それを考えながらこのイェシュアの言葉を見ると、イェシュアは十字架の周囲にいた群衆や自身の弟子たちに対して、詩編22篇(もちろん当時は篇はなかったが)の預言を読むように伝えたかったのではないか、という読み方もできるのだ。 

トーラーの巻物を公共の場で組織化された形で朗読するという、パラシャット・ハシャブアの起源は、エズラ・ネヘミヤ時代の紀元前450年にまでさかのぼることができる。
イェシュアが生きた時代には、パラシャット・ハシャブアの習慣が数百年の伝統として、すでにあったのだ。

トーラーの箇所に対応する、『ハフタラ』―

毎週朗読されるトーラーの箇所には、それぞれに対応する預言書『ハフタラ』がある。

これがいつ、どのようにして取り決められて習慣化したかについては、様々な意見がある。そんななか最も論理的で可能性が高いであろう理由は、トーラーの朗読・学びの禁止だ。

ハヌカ(宮きよめの祭り)の歴史的ルーツである紀元2世紀には、セレウコス朝によってユダヤ人たちはトーラーの朗読と学びが禁止された。そこでユダヤ人たちはトーラーの代わりに、預言書を読み始めたのではないか、というものだ。

ちなみにハフタラというのはヘブライ語で「免除・解放」という意味があり、この説とマッチしている。ハフタラを読むことによって、トーラー朗読の義務から免除(ハフタラ)される=義務を履行したことになったのだろう。 

パラシャット・ハシャブアのトーラーだけでなく、ハフタラの朗読もイェシュアの時代には、どのシナゴグでも行われる一般的なものだった。ルカの福音書4章を読んでみよう。

それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。

16~17節

これはまさにパラシャとハフタラがシャバット(安息日)に、シナゴグで朗読されていたことの証拠である。

ゴラン高原ガムラ遺跡にある、
イエス時代のシナゴグ跡。

また使徒の働き13:14~にも、パラシャ・ハフタラの朗読後に、パウロが奨励のメッセージを求められる場面がある。
イェシュアやパウロをはじめ初代教会のビリーバーたちは、シャバットにシナゴグへ行き、パラシャとハフタラの朗読を聞くという、非常に『ユダヤ的な生活』を送っており、イェシュアやパウロはそれに関するティーチングをしていた。
そしてその習慣は2000年経った現在でも、世界中のシナゴグで見られるのだ。 

パラシャット・ハシャブアに触れることは、イェシュアやパウロが持っていたユダヤ的世界観に触れることにも繋がるのだ。

パラシャット・ハシャブアの持つ、聖書的意義―

使途の働きに描かれている、エルサレム会議。

また、モーセ五書を順番に読み、学びを深めていくパラシャット・ハシャブアは、組織立った聖書の学びとしても非常に秀逸なシステムだ。

聖書に触れることは信仰を育て、御言葉への理解は信仰の成熟に不可欠だからだ。私たちは立場にかかわらず、御心や信仰について自問自答し、神が私たちに何を望まれているかについて、疑問を持つ。これらの疑問は非常に深く重要なことで、簡単に答えが出せず、また簡単に答えを出すべきでもない。

そして初代教会のメシアのビリーバーたちも、同じような疑問や不安を持っていたのだ。新しいビリーバーは何をすべきなのだろうか? どのような人生を歩み生きていくべきなのか?

それへの答えは使徒の働き15章にあり、それは21世紀を生きる諸国民の間で立てられたビリーバーに対して特に、有効なものだ。 

使徒の働きの主題のひとつは、
イェシュアの信仰に至った非ユダヤ人とどう向き合い、彼らがどのように生きるべきか、
である。

最初のコングリゲーション(会衆)のリーダーであるヤコブは、使徒たち同士の長い議論のすえ、このような言葉をもって会議を締めている。

「異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけない」

15:19

ユダヤ人ビリーバーたちは、ユダヤ人のみに対して与えられた戒律やルールという『障害物』を、異邦人ビリーバーの前に置くべきではない、と使徒たちは結論付けたのだ。

このヤコブが下した結論のベースには、悔い改めのための霊的なエネルギーを各々がまず用いるべきである、という考えがある。その後には十分な時間があり、その中で神からの言葉を学んでいけばよいのだ。

続く15章20節でヤコブは、ユダヤ人に与えられたのだが異邦人も守るべき戒めを、4つ列挙している。
これは「ノアの法(七戒)」と呼ばれる、ユダヤ的な考えに基づいている。

ノアの法(七戒)ー

  1.  偶像崇拝の禁止

  2.  神への冒涜の禁止

  3.  殺人の禁止

  4.  盗難の禁止

  5.  淫らな行いの禁止

  6.  生肉を生きている動物から取って(=血を)食べることの禁止

  7.  正義のために裁判所をたてること 

ユダヤの伝統は、これらは神がユダヤ人に限らず、普遍的な律法として全ての人々に求めていると考えている。この新約聖書の聖句は、当時からノアの法(七戒)という考え方があったことを証明しており、使徒の働き15章はノアの法や、それに繋がる異邦人も一部の律法を守るべきだという概念に関する、最古の文献とも言えるのだ。 

そんなユダヤ的なコンセプトを踏襲し、ヤコブは新しいイェシュアのビリーバーたちに、指針を与えている。命と救いの旅路は長く、またその入り口は非常に狭い。しかし一歩一歩、確実に進めば恐れることはない。

御言葉への学びに関しても同じことが言え、これも長い道であり、一歩ずつ進む必要がある。その観点からパラシャット・ハシャブアは、非常に有用だ。シナゴグでは毎週トーラーが朗読され、ユダヤ人たちは神から与えられた言葉から感じ学んだ事を、ディスカッションし合う。

ヤコブの会議の最後(使徒15:21)の言葉では、世界中のシナゴグでモーセの律法(=パラシャット・ハシャブア)が読まれており、異邦人ビリーバーたちもその学びに加わることが推奨されている。
そしてこのヤコブと使徒たちの決定事項は、現在も有効なのではないだろうか。2000年経った現在も世界中のシナゴグで、パラシャット・ハシャブアが朗読され、教えられているからだ。

私たちネティブヤは、1年間続くこの学びの旅に、皆さまを招待したいと思う。毎週のパラシャを一緒に読み、学びを進め、トーラー全体をカバーしていこう。

次世代のためのパラシャット・ハシャブア―

家族でパラシャット・ハシャブアを学ぶ、ユダ師。

また同時に、私個人としては家族というフォーマルではない雰囲気・フォーマットで、このパラシャット・ハシャブアを読んで学ぶことを推奨したい。例えばコーヒーとケーキを用意して、それを食べたり飲んだりしながらその週のトーラーの箇所について話し合う、というのが私からの提案だ。

私がなぜこの点を強調するかというと、神の言葉を子供たちに教育することはまず第一に家庭、親から始まるからだ。私たちは子供たちをビリーバーの家という、守られた空間で育て守っている。そのために時として、子供たちには見せず触れさせない、彼らに取っては正しく適切ではないコンテンツもあるだろう。
外の世界は時として厳しく、無慈悲で残酷だ。 

愛する私たちの子供たちを守り、最善の形で育てるのは正しいことであり、与えられた義務でもある。しかしいずれ「その時」がやって来て、子供たちは親という守られた空間を離れ、時として恐ろしい外の広い世界へと飛び立っていく。そしてその時に私たちは、自問自答するだろう。

はたして私たちは彼らに対して適切な備えを行っただろうか?
霊的な食物をしっかりと彼らに与えられただろうか?
この世界に打ち勝つための、正しく堅固な基礎を彼らのために築けただろうか?

ある調査によると、60~80%と半分以上の2世ビリーバーが、育ったコングリゲーションや教会から離れている。教会・コングリゲーションで10人の子供が生まれ育ったとしたら、そのうち残っているのは2・3人というのが現実なのだ。 

そんな厳しい現状に対して、私たちは何ができるだろうか。
親として私たちは、子供たちに聖書に基づいた強い基礎を築き、与える義務がある。
そのためには、時として難しい質問を彼らに投げ掛け、試練や難題と向き合わせなければならない。そして教え込むという一方方向ではなく、彼らにも耳を傾けて自由に疑問を持たせ、一緒になって聖書を読んで学ぶことが重要なのだ。

そのような背景から私は、家族でパラシャット・ハシャブアを学ぶことを勧めるのだ。毎週、連続してトーラーを読み進めて行くことには、大きなメリットと可能性がある。 

そして日本の皆さまは、私たちにとっては霊的な大切で親愛なる家族
そんな家族の一員である日本のイェシュアの弟子である皆さま、
パラシャット・ハシャブアの学びの旅にようこそ!!

ユダ師のパラシャに関するセミナー動画(日本語訳付)

日本で行われた、ユダ・バハナ師によるパラシャット・ハシャブアについてのセミナー動画↓

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