第18週:ミシュパティーム(定め)
基本情報
パラシャ期間:2023年2月12日~2月18日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 21:1 ~ 24:18
ハフタラ(預言書) エレミヤ 34:8~22, 33:25~26
新約聖書 マタイ 5:38~42、15:1~20、マルコ 7:1~23
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
あわれみは人を無慈悲にするのか?
ユダ・バハナ
十戒が与えられたあとのこのパラシャでは、人の財産はそれへの責任問題、人と人や支配体制との関係性など、日常生活にかかわる法律や定めのリストが続いている。このパラシャでは皆さまと日常と非日常、そしてあわれみや正義・正しい裁きについて分かち合いたいと思う。
多くのユダヤ人聖書注釈者たちは先週のイテロと今週のミシュパティーム、2つのパラシャを相互補完関係にあると見るふしがある。十戒の登場するパラシャット・イテロからトーラー授与が始まり、パラシャット・ミシュパティームに続いて行くという流れである。しかし私は少し視点を変え、この2つのパラシャをコントラスト・対照関係として見てみたいと思う。精神的・霊的に相反する、2つの状態について取り上げている。
また先週のイテロは十戒が与えられるという最高潮、1度きり啓示であり、それに対して今週のパラシャは人の社会における日常かつ恒久的な必要事項についてだ。
霊的高揚と日常の違い―
先週のイテロをシナゴグで朗読する際、十戒の箇所で起立するというのがユダヤの伝統だ。そして私たちのコングリゲーションでも先週は皆立ち上がり、十戒授与の意味・重さをそれぞれが噛み締めた。先週のパラシャでは神ご自身が自ら天からシナイ山に降り、律法の石板をイスラエルに与えた。
まさにこれは歴史上に一度きり、クライマックとも言える啓示である。この時の霊的な民の高揚は異様なものがあり、同時に民の心には非常に大きなおそれもあった。そして煙に火、ゴロゴロととどろく音と、それに相応しい様々なある種『エフェクト』もあった。
そしてシナイ山におけるトーラー授与は、歴史を通じてユダヤ民族にとっては礎となる出来事だ。しかしその直後に、イスラエルの民は黄金の子牛という堕落を体験することになる。
この霊的高揚・クライマックスからの転落という高低差は、聖書の最初にも登場するなど、聖書には見られるパターンでもある。天地創造を見てみると宇宙と自然、そして動物と園の創造が描かれており、そこでは全てが新しく新鮮で、神が良しとされるほど素晴らしいものだった。しかしその直後に、私たちは大きな堕落とエデンの園からの(面目が立たない)追放を経験することとなった。
また奇跡という尺度で考えると、葦の海・紅海が割れてそこを渡ったというのは、トーラーの中で最も偉大な奇跡ではないだろうか。イスラエルの海は、砂漠と海の間に挟まれてしまい、そこにはエジプトの優秀な騎馬兵・戦車隊がすぐそこまで迫っていた。すると人々はモーセに対して泣いて、砂漠で自由な民として無駄死にするよりも、エジプトで奴隷の身に留まるほうが良かった、と不満をぶちまけた。
そんな緊迫感と恐怖が渦巻いた瞬間に、神は海を分けられたのだ! こ
れを文字だけでなくイメージしながら読み考えるだけで、私は童心に戻ったような興奮を覚える。民族が一つとなり海の真ん中を、左右に水の壁に挟まれながら進んでいく― イメージすることすら困難な、そんな1コマだ。そしてエジプト軍は海の中に一瞬で飲み込まれ、イスラエルびとは九死に一生を得た。
しかしその後に、何が起こっているだろうか。水そして食べ物についてイスラエルは繰り返し、モーセや神に対して逆らって不平をもらしている。
人は人でしかない。それは霊的なピークとも言える、非日常体験・奇跡との相性の悪さにも表れている。
私たちは何か日常の持続的なものにしか、上手く対応できないのである。そしてそれを物語るかのように聖書の中には、ピークとも言えるアップがあれば、その後には急激なダウン・転落がある。そしてその山の高度が高ければ高いほど、その後の転落もより大きな痛みを伴うのだ。
日常におけるバランス―
人は、そしてビリーバーは特に、日常におけるバランスというものが重要である。私たちの多くは、何かしらの二元・二極的な空間の中を生きている。
一週間という単位で見てみよう。
週末には、教会やコングリゲーションで霊的なピークを体験し、聖句や神学的なトピックについて話を聞いたり、ディベートをしたりする。(時として私たちは日常と直接的な関係を持たない、高度な神学や机上の論理に関する議論に注力し、互いを傷付け合うという、悲しい現実も起こってはいるが…)
そして対照的に平日では、非常に世俗的でこの世的な、週末の礼拝やメッセージとはかけ離れた世界を生きているのだ。
そんななかを生きるために、私たちにはちょうど良いバランスが必要である。あまりにも高くクリアが出来ない基準を自身に課し、その結果として信仰を失ってしまっては、それもバランスとは言えない。イェシュアと並んで、家族や隣人・同僚などを巻き込み、日々を着々と生きて行くために、日々の確固としたベース・バランスが必須なのだ。
イェシュアは人が自然に持つ振る舞いや性格・傾向に対して、反対の立場を取っていた。
例えば他人には厳しく自分には甘かったり、自身の内なる部分とは相反して外面は敬虔で信心深いビリーバーとして生きたりという、ダブルスタンダードとも呼ばれる偽善に対して、イェシュアは厳しく非難している。
この御言葉は、パリサイ派だけではなく、私たちイェシュアの弟子たちにとっても、突き付けられるような言葉だ。私たちは、他者に対して求め過ぎてはいないだろうか? 実像以上に義人・敬虔なビリーバーのように、外に対して見せてはいないだろうか?
そして高尚な神学的な議論は私たちを一致か分裂、どちらに導くのだろうか? そこに待っているのは愛か怒りか、どちらだろうか? そしてそれら神学的議論は、どれだけ日々の生活に対して根差しているだろうか? または机に上、理論に留まってはいないだろうか?
正義への呼び掛け―
今週のパラシャのもう1つの重要なトピックは、正義・公義である。
出エジプト23章はイスラエル内における裁きと、公正な裁きを行うための必要事項について取り上げている。まいないを送ることや受け取ることや、間違った証言へ耳を傾けることへの禁止などだ。
その中で2つの聖句が興味深く、目に留まったので紹介したい。
ここで豊かな人と貧しい人をどう捉えるかに関しては、2つの方法がある。公務に関わる人々や裁判官たちの間では、経済的または権力的に強者・豊かな人々側に偏っている時もある。
例えば巨大な企業が、税制上の不正を個人では考えられない規模で行っている反面、そのしわ寄せが私たち一般市民の微々たる収入に来ているとしたら、私たちは不公平に思うだろう。
私たち個人が借金と大企業の借金では、銀行などの対応も当然違い、私たちはそれを不満に思いつつも、当たり前のこととして受け入れている。
私たちもコングリゲーションで、裕福な人や大切な支援者がゲストとしてきた際、「さぁ、前に来て、良い(名誉ある)席に座って下さい」と招き、その結果として他の人々が後ろの方に座らざるを得ない、ということも起こっており、私自身も間違った行いをしている。
またその反面、心情として私たちは貧しい人々に対して憐れみや同情を寄せ、弱者を応援するという自然な性質も持ち合わせている。そして貧しい人・弱者と豊かな人・強者が対立した際、前者が後者よりも正しいと、感傷的な理由から考える傾向もある。
これは民事的な対立・裁判にも見られ、また同時にイスラエルとパレスチナとの紛争問題に関しては、その傾向がより顕著になる。弱者であるパレスチナが100%の被害者・犠牲者であり、絶対的に正しい― 世界の平均的な見方は、こうだったりもする。
この2つの聖句は、そんな人の性質をよく知ったうえでの神からの言葉・トーラーだ。裁きびとだけでなく私たちに対しても、ぼろぼろの服を着て穴の開いた靴を履いた人に対しても、公平な目で見、感情に任せて正義(の裁き)を曲げてはいけない、と神は警告しているのだ。
あわれみが無慈悲に?
神は人に対して思いやりと温かい心を持つ反面、事実のみに基づいた冷徹さも持つよう求めている。そして正しい判断を下すため、富や権力・影響力に目がくらまないよう、そして同時に貧しく同情を誘う弱者たちが罪を犯した際には、感傷的な理由からえこひいきしないよう、気を付ける必要がある。
古代のラビたちは、こんな興味深い原則を説いている―
この原則は、サウル王の物語に登場する。
そしてサウル王は、この命令を守らなかった。
そしてその後、ノブの祭司たちがダビデに加担しているのではと疑った際、サウルは彼らを容赦なく殺した。
サウル王はアマレクびとに対してあわれみを持ち、神に命じられた通りに殺すことはせず、その一方でノブの人々を無慈悲に殺戮していった。ノブに対して行ったことは、アマレクびとに対して行うべきだったのだ。
紹介したタルムード時代のラビたちの言葉は、このサウル王の過ちから来ている。そしてこの言葉は、私たちの日常生活にとっても重要なものだ。
私たちは社会で起こっているスキャンダルや問題に対して、目を閉じ口をつぐむ傾向がある― 攻撃、性犯罪、窃盗、詐欺、搾取、権利の侵害など、枚挙に暇がない。
また全ての人は罪人であり、イェシュアが必要であり、もう1度チャンスを与えるべきという理解・精神から、私たちは寛大に許し、警察などに届けず、また公然と人を非難しない傾向もある。
しかしそんな時こそ、「無慈悲な人をあわれむ者は、究極的にはあわれむ人に無慈悲になるだろう」という言葉が、重要になってくる。
もし私たちが様々な犯罪において加害者をあわれんだことで、犯罪者が社会の中に(ペナルティーや罪の意識を持つこと無く)居座るようなことが起これば、私たちは誰に手を差し伸べ、誰を虐げているのだろうか。
もしある人が他人の弱みにつけ入り、経済的・精神的に搾取・利用していたにもかかわず、私たちが目をつむった場合― 私たちは誰を助け、誰を傷付けているだろうか。
今週のパラシャが教えている最大のレッスンは、真の正義・公正についてだ。思いやりなどの人としての心やあわれみや慈悲は極めて重要ではあるが、このパラシャでは時として権力や富はもちろん、人情やあわれみの心にもふたをして、悪しき者を罰し公正に人々を裁く必要性を教えている。
そして私たちのコミュニティーは、正しき人々が安心でき彼らが被害者とならない、そんな場でなければならず、そんな場を私たちは共に作っていくべきなのだ。
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