第7週:ヴァ=イェツェ(出て行った)
(パラシャット・ハシャブアについてはこちらを)
基本情報
パラシャ期間:
2022年11月27 ~12月3日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 創世記28: 10 ~ 32:2
ハフタラ(預言書) ホセア書 12:13 ~ 14:10
新約聖書 ヨハネによる福音書 1:41 ~ 51
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
ヨセフ・シュラム師と読み進める
『ヴァ=イェツェ』
ヤコブは長子の特権と父の祝福を奪ったため、エサウの恨みを買った。
しかしリベカは、妊娠中から双子の将来について神から預言を受け取っており「兄が弟に仕える」ことを知っていた。そしてその実現のために働いた。またエサウが心の中で言った、弟への殺意を聖霊によって知らされ、ヤコブが殺されないように取り計らった。(創世記 27:42)
リベカはヤコブの結婚相手を、大叔母サラの故郷でもある自分の故郷から探すよう、イサクを説得した(創世記27: 46)。妻を自分の地元から迎える風習は今も続いている。イサク自身、レベカをハランからめとっているのでうまく説得できた。そこでヤコブは出て行った。通読箇所であるパラシャット・ハシャブア(略してパラシャ)のタイトルは、その箇所の一番始めの単語から取られており、「ヤコブはベエル・シェバを出て」というところから、ヴァ=イェツェ(出て行った)という名前に今週はなっている。
ハランへの道とヤコブの夢
ハランは現在のシリア、アレッポの近くだ。彼らが住んでいたベエル・シェバからリベカの故郷ハランまでは、約800キロの道のりだ。ヤコブはその距離をラクダも使わず歩いて、孤独な逃亡を続けた。その一帯は多くの民族が混在して住む地であり、それは異教の民の危険な土地でもあった。そしてそんななか、日暮れまで歩き疲れきったヤコブは石を枕に野宿をした。
これは神が遣わされた夢である。神はヤコブの祖父アブラハムにも夢で語られた(創世記12章)。ヤコブのはしごの夢で、天使が上り下りしていた。普通なら、天から下るのが先で、次に上るわけだが、この夢では、先に天使が下から上に登って行った。これは神がヤコブの旅を守るために、天使を送っていたことを意味する。天使は天に登って報告をし、そして代わりの天使が降りて来ていたようだ。
兄から逃れているなか、突然神は現れヤコブの上に立った。この「上に立つ」の言うのはヘブライ語的には、会話相手に対して「私はあなたに対して仕えるためにここに居ます」という意味を持っている。まるで良いレストランの模範的なウェイターが、テーブルや客人の様子をくまなく見ている、それと似た感覚だ。
ヤコブは神がアブラハムとその子孫=自身に対して永遠に約束されたこの土地を、今出て行こうとしている。しかし神はこの聖句を通して、「ヤコブよ、神が共に居られ仕えていることを忘れず、知っておけ」と伝え、必ずこの土地にヤコブを連れ戻すことを約束された。
土地の約束と子孫の祝福
神はヤコブの人生がどん底にまで落ちた時に現れ、約束を再確認してヤコブを励まされたのだ。
そこには神殿も祭壇もなく、家族もいない。しかしただ一人の神が、この人気の全くない異教の民の地でさえも主が常におられることに、ヤコブはここで気付いたのだ。
当時のこの地域の異教の世界観によると、神は地域の神でありその地域に限定される存在である。日本の氏神や氏子の感覚で考えると、分かりやすいかも知れない。
だからここで、唯一の神である万軍の主はどこにでも・いつでもおられることが分かり、ヤコブは聖書の神の力強さに驚愕した。
そしてヤコブはその場所をベテル、「神の家」と呼んだ。それまでこの地はカナン名のルズとして、知られていた。
ヤコブは自分が枕にしたその石を立ててしるしとし、油を注いで聖別し、誓願を立てた。そして、旅路が守らこの地に無事に戻って来たならば、ここを聖なる場所にすると神に約束した。(創世記 28: 20-22)
ヤコブとラケルの出会い、そしてその後~
ヤコブはハランの井戸でラケルを見、非常に惹きつけられ一目惚れした。そして彼女の気を引こうともした。通常、井戸の上には水が蒸発しないよう大きな石で蓋がしてある。そして羊飼いたちが全員集まったら、みんなでその石をどかして、それぞれの羊に水を飲ませる慣習があった。
しかしヤコブは他の羊飼い達の前、そして特に気に入られたいラケルの前で、井戸にあった巨大な石の蓋をひとりで動かして開けることで、まず自身の力強さ・逞しさを誇示した。そしてラケルの羊に水を飲ませた後で、彼女に口づけし大声で泣いた。ヤコブのこれらの行為に、ラケルはかなり強い印象を受けたことだろう。
そしてヤコブはラケルのために、7年間働いた。それもヤコブにとってはほんの数日のように思われた。ここでも、ヤコブのラケルに対する愛の大きさを感じさせられる。ラバンにだまされた後も、ラケルのためにヤコブはもう7年間働いた。
イスラエルの(ユダヤ的な)結婚式では、今でも誓約前に花婿がベールの下の花嫁の顔を確かめる習慣があり、これはラバンがヤコブのもとにラケルと偽ってレアを入らせたことから来ている。
これらのヤコブの行動から、愛の意味するところを見ることができる。それは妻のために働くことであり、愛は時間に勝り、時を超える。
不妊の女、ラケル―
ヤコブ一家は問題・スキャンダルの絶えない家族で、今であればハリウッド映画の題材になっていただろう。
大きな愛を受けた妹ラケルと、愛されていなかったレアの構図はのちに起こるであろうドラマを示唆している。そしてレアのために神が憐れみ、レアの胎を開かれた。結果としてレアは6人の男の子をヤコブに産んだ。
しかしその反面愛されていたラケルには子が与えられず、不妊だった。神が胎を閉じておられたからだ。ヤコブの子(=男子)が合わせて10人になった時、神はラケルに心を留められ、彼女の願いを聞き入れてその胎を開かれた(創30:21)。こうして生まれたのが、ヨセフである。
その後、神はヤコブに導きを与えられた。
夢で語られる神
神はどのように夢を使われるのか。ヤコブの夢は天の梯子だった。ラバンにも、ゲラルの王にも、神は夢で語られた。エジプトの王パロ、ヨセフにも、神はメッセージを夢を通して見せられている。
そして、これはペテロの夢 (使徒行伝10章)にも通じてくる。ペテロは空腹時に、食べ物の夢を見た。そして清くない食べ物に対して、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた(10:13)。
これは食べ物という、小さなことを指しているのではない。
「イェシュアのコミュニティーに異邦人を、ユダヤ人と同様に受け入れよ」
というのが、この夢の最も正確な意味であり、解明かしである。
実際に直後にコルネリオが、初めての異邦人としてイェシュアの共同体に入って来た。聖霊がペテロに示したのは、「ためらわずに彼ら異邦人と、イェシュアの道を一緒に歩め」ということだった。
すべての人はユダヤ人・異邦人にかかわらず、神の御姿に創造された。ペテロはこれに気付き、コルネリオスの家で異邦人に対してもイェシュアを受け入れるよう教え、イェシュアの証を始めた。そしてペテロがこれらのことを話し続けている時、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。その後ペテロはエルサレムに戻り、聖霊に示され導かれて行なったことを証した。(使徒行伝10:44から11章)
ここから「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない(使徒行伝10:14)」との言葉は、他の人々を受け入れよ、ということを意味していることが分かる。
人はきよいものとして、どの民族であるかにかかわらず、神のかたちにかたどって創造された。したがって、ある人種がきよくないということは、神ご自身がきよくない可能性をはらむことになる。
そして私たちの主イェシュアは、人々を分け隔していた壁を文字通り、打ち壊された。
万軍の主である神が私たちの主であり、イェシュアこそが私たちのメシヤ・救い主であり、私たちを民族や全ての隔たりを越えて、ひとつにされる王なのだ。
そんな王のもと、皆さまに素晴らしいシャバット(安息日)があるように。シャバット・シャローム!!
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