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原稿用紙5枚の掌編小説「残り火」


学生時代の私の日々は映画とともにありました。
あのときの暗闇の充足感は、今でも私の大事な部分を支えていてくれているような気がします。
そんな懐かしい時代に思いを馳せて、こんな物語を書いてみました。


「名画はヒカリ座」と書かれた看板は昔のままだった。ペンキを塗りなおした真新しい文字が、古ぼけた建物に不似合いに見える。自動販売機でチケットを買い、重い扉を開けて館内に入ると、かび臭い匂いが漂っていた。スクリーンに下がった緞帳のデザイン。塗装の剥げ落ちた壁。何もかもが昔のままだ。客席は八割ほど埋まっているだろうか。私は後方から数列目のシートに腰を下ろした。その途端にシートのバネがギシギシと音を立てた。

 飯田橋にある映画館ヒカリ座が閉館するとのニュースを知ったのは、二か月前のことだった。ヒカリ座は古い洋画を上映する名画座で、学生時代、東京に住んでいた私は足繁く通ったものだ。当時はまだ今のようにレンタルビデオも普及しておらず、安い料金で往年の名画を観られる名画座は、貧乏学生にとってはありがたい存在だった。大学で学んだことなどみな忘れてしまったが、映画からもらった感動は今も色褪せてはいない。私にとって映画館は人生の大学だった。

 時代の趨勢とは言え、思い出のつまった映画館が閉館する。私はその最後の姿を見届けようと、北関東の地方都市から新幹線と在来線を乗り継ぎ、ヒカリ座にやってきた。秋も深まり涼しさを感じる季節となっていた。
 目当ての映画はフェデリコ・フェリーニ監督のイタリア映画「道」だ。初めてこの映画を観たのもヒカリ座だった。まだ若かった私は、この作品に言葉をなくすほど心が揺さぶられたのを覚えている。

 上映開始を告げるベルとともに館内の灯りが落ち、緞帳が開いた。スクリーンにはオープニングタイトルが映され、それに合わせてテーマ曲が流れ始める。そのときだった。遅れてきた一人の赤いセーターを着た女性客が私の二列前の席に座った。急いで来たのだろう、女性は肩で息をしながらハンカチで額の汗を拭っている。私からは左前方の席なのでかすかに横顔が見える程度なのだが、大学生だろうか、年は二十歳ほどに見受けられた。

 スクリーンでは粗野な男と無垢な娘の哀しい物語が綴られてゆく。その一つひとつのシーンを、これが見納めと言った思いで私は心に刻んだ。
 そうしながらも、私は先程の若い女性の後ろ姿に気持ちが絡めとられていた。頬の輪郭、小ぶりな耳たぶ、そして華奢な肩にかかるセミロングの髪。

 ―――彼女に似ているのだ。

 学生時代、私には思いを寄せていた同級生がいた。九州出身の娘だったが、卒業後はお互いに地元に帰ることになっていた。最後のデートに観た映画が「道」だった。場所はもちろんこのヒカリ座だ。
 見終わって映画館を出ると、私たちは感動と切なさで胸をいっぱいにしながら、駅への道をただ黙って歩いた。気がつくと、どちらからともなく手をつないでいた。彼女の掌から伝わる温もりが愛おしかった。
 あの時の記憶が、静かに私の脳裏に蘇った。彼女の表情、笑い声、髪の香り、そして息遣いまでも。

 赤いセーターの女性は身動きひとつせず、スクリーンを見つめている。その女性が、まるであの時の彼女であるような錯覚に私は陥った。しかしそんな私を、もう一人の現実的な私が打ち消した。

 ―――彼女のはずがない。

 なぜなら彼女は質の悪いガンを患い、数年前にこの世を去っているのだ。私はそのことを当時の仲間からのまた聞きで、つい半年ほど前に知った。同じ空の下で生きている限り、いつかまた会えるかもしれない。そんなささやかな望みも消え去った。

 やがて映画は、夜の砂浜で号泣する男の姿を残して幕を閉じた。場内が明るくなっても、私はすぐに席を立つことができなかった。何度も観た映画ではあるが、様々な思いが私の胸を満たしていた。
 気がつくと客の多くが出入り口に向かって退場し始めている。その中に赤いセーターの女性の姿があった。私は急いで席を立ち、女性の後を追った。声をかける気など毛頭なかった。ただどんな人なのか、顔を見てみたいと思った。

 映画館を出ると、女性は表通りの歩道を飯田橋駅とは反対方向に歩いてゆく。私は数歩の幅を保って女性の後ろを歩く。その先にある交差点では歩行者用の信号が点滅を始めていた。そこで女性がうまく信号待ちをしてくれれば、さりげなく顔を伺うことができるのだが―――。
 そんなことを思っていると女性は不意に走り出し、信号の点滅している横断歩道を颯爽と渡って行ってしまった。私は気が抜けたようにその場に立ち尽くすしかなかった。

 街の喧騒が波のように私の耳に押し寄せてきた。子供じみた自分の行為に、私は気恥ずかしさを感じた。それとともに、私の心に燻っていた青春のの残り火が、たった今消えたような気がした。私は誰にともなく呟いた。
―――さようなら。

#掌編小説 #名画座 #フェリーニの道

 

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