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単純さによるClose

『死刑について』平野啓一郎


・ぐるぐる考えてきたこと



とても誠実で丁寧な本でした。
 
世の中には本当にどうしようもなく理不尽な犯罪があって、その被害者がいる。この現実はとても受け入れがたく、こどもの頃から、こうした悪とどう向き合うべきなのか?という疑問に私はつきまとわれてきた。
ぐるぐる。
痛ましい事件の報道を目にする度に浮んでくる疑問。
 
悪、罪、罰。責任。
それらが生活の中で亡霊のように浮んでくる人生である。
だから、平野さんが死刑についてまとめた書が出たと知り、脊髄反射のように手にしていた。
 
思えば『ある男』は、こうした犯罪と、死刑と、その周りの人々の話が主題に据えられていた。
作中でそれらに対して飛び交う言葉が、自分が犯罪や死刑というものについて考えてきたことと深く共鳴したことを思い出す。

蘇った共鳴は私に囁く。
また筆者の声に耳を傾けるべきでは?

ぐるぐると周り、隘路に迷い込んだ思考を、何処か違う局面へ連れ立ってもらえるのではないか?
祈りにも似た心地で、読みふける。


・飾ることなく、誠実に語る



本書を一読し、まず浮んでくるのは誠実さである。

筆者の言葉は論理的組み立てが美しいからだけでなく、赤裸々に自身の変遷を晒すからこそ、誠実さがにじみ出ている。
この誠実さの堅さ、重さ、それらが真摯に読者を議論の場へ立つよう誘ってくれるのだ。
 
筆者はそもそも死刑廃止に懐疑的な意志を持っていた。
そのことがそうではない今から改竄されることなく語られる。
それもきれいに物語化されて整えられるわけでなく、生身のまま提示されている。

大学時代の友人との死刑を巡る議論でその背景は語られるわけだが、
その意志は積極な懐疑論ではなく、
誰かの死を赤の他人の死としてのみ想定して組み立てられた友人の論旨反発する形だった。

自分の死、近しいものの死、赤の他人の死。

死を3つに筆者は分ける。
この死の分割は、ともすると死を層別化するのか!なんて声を引き寄せかねない気もする。
そんな市井的懸念が浮んでしまった。
だが、それは市井的というよりもこの層別化という批判がわきたつのならば、浅はかな懸念と言わざるを得ないだろう。

というのも、身に詰めて考えるほど、死は画一的で統一したものではなく、違う表情を持つ方がリアリティを持って私には染み込んでくるのだ。

赤の他人の死だって我がことのように想像しろ。

そんなことを平気な顔でぶち上げるひともいるだろうが、そんなものは自分を、世界を、騙しているにすぎない。
冷静に死を捉える私たちを観察したらば、確かにこの3つは色合いが違っていると身につまされるに違いない。

この3つの死の表情を定着させると、気が付くことがある。

私たちは饒舌に語るときほど、死をあくまで赤の他人の死と同質化し、自分から遠くに置いて語ってはいないだろうか?
その方がクリアな思考と誤解してないか?
揺れ動く感情から切り離された思考と、錯覚しているのではないか。

友人が説いた、赤の他人の死を巡ることとして死刑を捉えて生まれる反対論。
その反発として、自分や近しいものの死という目線で築かれた死刑肯定論(幼い頃に父を失ったということが筆者を親しいものの死へと引き寄せたのかもしれない)。

ここで交わされるどちらの論も、死というものがもつ表情を一面的にしか捉えていないのではないか?
結果、リアルにその問題の渦中にいる人からしたら、在る一面においてリアリティを欠いた論となったのではないだろうか。
若く、熟していない議論。
そう思えて仕方がない。
そして、筆者自身もそれを自覚の上、あえて出発点として明示している気もした。やはり、誠実である。


・多面的表情に気づかれた死



3つの死という筆者が提示した死の多面的側面。
死刑に関しては、そのいずれの側面も考慮して、思考しなければならない。

そう教えられた気がした。

これはなにも死刑に限ったことではないだろう。

私たちは生き死にと関わる他の問題に直面したときも、この死の3つの側面を忘れずに思考しなければならない。

例えば、今起きている国家間の争いによる死はどうだろう。

そこで生じている死は私たちにとって現実的には赤の他人の死となってしまうが、
その死が”誰か”の近しいひとの死であり、かつ、志半ばで閉じられる主体の死でもあることは自明である。

筆者が指摘するように、人間の想像力には限界がある。
現実的には赤の他人の死であるものを、我が死のように、我が近しいものの死のように、完全に真摯に共感することは難しい。

時間と共に新鮮な共感が薄れていく社会の関心を見るに、限界は明らかだ。
私たちは筆者が指摘するように個人差はあれど、共感力の限界を抱えている。
そう受け入れなければならないのだろう。

限界を受け入れながらも、Actualに存在する死の3つの表情を忘れない。

共感できずとも、それらが存在することを常に意識する。

そうした見地がActualにこの争いについて考えるためには必要なのだろう。


・丁寧に築かれていく思考の経緯



あくまでCounterとして浮んだ死刑制度への思考。
それを自分の思考で編み直すために、筆者の思考が歩みを進めていく。

この国を出て、死刑を置かない人々と生まれたコミュニケーション。
関心を羅針盤に重ねられた犯罪被害者家族とのコミュニケーション。

前者は筆者に跳躍のための足台となる疑問を投じてくれる。
なぜ、様々な世界の仕組みに関して全面的に共鳴可能な人々たちと、
死刑という1点への思考が重ならないのだろう?
この疑問が、筆者をより深くこの問題に踏み込ませる原動力となる。

そして、その原動力が誘った先で筆者は後者のコミュニケーションと相対する。
このコミュニケーションは、放置され、傷つき続けている存在(=被害者家族)を筆者に気づかせることになる。
『罪と罰』、『異邦人』、『テレーズ・デスケルウ』、『冷血』。
本書で加害者を描いた小説の代表として出された作品たち。
『テレーズ・デスケルウ』は読んだことがないが、確かに、他の作品はどれも加害者に焦点が定まっている。
そこには被害者の内面はなく、あくまで外的なアプローチで被害者たちは象られている。

こうした文学の傾向に思い至ることで、筆者は自分の起こすべきActionに気が付く。

被害者側に焦点を当てた物語による可視化が必要なのでは?

そして、綴られたのが『決壊』だった。

『決壊』
自分が読んだのは学生の時分である。
平野さんの作品に強い共鳴を覚え、著作を追うようになるきっかけとなった一冊だ。
当時は、私の来歴の乏しさから、罪にまつわる多面的な話という曖昧な印象を浮かべることしか出来なかった。
しかし、今回、あの物語へ行き着く変遷を知ることができたわけで、再び読み直したい衝動が自然と強く立ち上ってくる。
 
『決壊』を通じ、筆者は弟を殺された兄に強く共鳴し、物語を走りきる。
走りきったのちに、筆者を待っていたのは、心の底から湧き上がる死刑制度への嫌気だった。

以降、嫌気の理由が丁寧にClearに記される。

  •  死刑を構成する警察捜査、司法、政治の杜撰さ。

  •  徹底的な自己責任論の元、くみ上げられない加害者の背景。

  •  事情があれば殺人も許容する相対的態度の内包する矛盾。

  •  死刑が抑止力にも悔悟にもつながらないこと。


どれも具体的かつ共感的な事象が引かれ、とても丁寧に論理的に語られる。

そして、やはりこれらの語りも根には筆者の体験が、心の動きがきちんと編み込まれているのである。

保育園のこどもたちをみて、犯罪者のそうした根っこに思いを馳せる筆者。

自身の幼少期の、体罰が横行していた教育現場での忸怩たる思い。

こうした筆者の土壌とつながった言葉は、いかに筆者が身を持って語っているか、その切実さを読者に喚起する。


・利己的、短絡的共感の暴力



死刑制度への嫌気が語られた後、本書は被害者家族の存在へ焦点を当てる。

この思考過程では、『本心』でも描かれた他者性の尊重、それが通奏低音として記される。

私たちは被害者の苦痛、そして、その家族が見舞われた理不尽さ故に、残されたひとに同情する。
しかし、
『あくまでそうした境遇に置かれている人々と自分は状況が違うのだ』
その一線を忘れてしまったら、
暴力的な妄想に近い想像を残されたひとに押しつけることになりかねない。

可哀想なひと。加害者を憎むべきひと。加害者に罪を問うべき人。

そうしたステレオタイプなレッテルを余所に、残されたひとびと、その中には当然ながら唯一無二の個人がいて、皆、それぞれの思いを抱いている。

レッテル張りはそうした個人性を暴力的に短絡的に無視してしまう。
被害者家族という檻に残されたひとを押し込めるべきではないのである。

残されたひとの言葉に耳を傾け、背負ってしまった傷と個人の向かい合いを社会は支えなければならないのだろう。

人々は被害者家族なんて一色のペンキで塗り分けられないのだ。

単純化の暴力。
それに対する筆者の強い意志に、私は強く共感を覚えた。



・制度を保持するこの国の形




更に本書はActualな領域に踏み込んでいく。

そもそも何故日本では死刑が続くのか?

死刑制度のはらむ問題を可視化し、反対の声を張り上げるだけでは、世界に一過性の波を起こすだけである。

そこから一歩先に行くためにも、筆者は日本の死刑制度を支えてしまっている存在をあぶり出してくれる。
これは本当に重要な一歩ではないか。
 

  •  刷り込みとして機能する勧善懲悪の物語たち。

  •  死をもって償う文化。

  •  形而上学的存在の不在から来る、人間による人間のための地獄。

  •  勝ち組負け組の色分けが生む、最もサポートが必要な存在から進む、逆行的切り捨て。

多面的な原因が複雑に絡み合って死刑制度は支えられている。
その決して単純化できないものを、筆者が丁寧に優しく解いてくれる。

これら死刑制度の下支えとどう向き合っていくか?

それこそActualに死刑制度と向き合うことなのかも知れない。
そして、死刑制度を通して作者が浮かび上がらせてくれた病理は、この国で生きる人間が向きあって考えていくべき課題のようだ。

『「憎しみ」で連帯する社会か、それとも「優しさ」をもった社会となるか』

私たちは筆者が解してくれた課題を丁寧に頭に落とし込み、それぞれ考え、意見を交わすべきだろう。
そのためには持続的かつ広く課題の共有がなされなければならないし、私たち個人の根幹に直結した議論が持続的に行われる場が必要だろう。

前者に関しては、まず、この本が多くの人に届くことが効果的な第一歩かもしれない。




・私も丁寧に誠実に考えるべきだ



最後に本書を経て、私の頭をぐるぐる回っていた亡霊たちの変化を記そうと思う。

私も死刑制度は反対である。

筆者の嫌気の由縁と共鳴する部分が多いが、私は筆者よりも乾燥している。

人間は崇めたくなるような善行も、信じがたく残酷な悪行も、ヴィトゲンシュタインの言語世界的に語り得るものは何だって出来てしまうと思っている。

善行、悪行、それはあくまで人間史観の物差しで色づけされるもので、本来的にはただ出来事以上の何ものでもないと思う。

しかし、実際のところ、私たちは皆、私たち人間それぞれのフィルターでこうした出来事をみるしかない。
この構造的限界が在る以上、そこの色づけは幻想のようで確かにあるものだと思う。

そして、パラレルワールドが実感をもって信じられない以上、私たちに自由意志なんて本当はない。

私たちは決まった道を歩いているのだろう。

今も過去も未来も、たった1つの世界軸で続いていると今は信じているのだから。
脇道にそれることが出来ない一方で、私の道を進めるのは私だけなのである。

私も含め、この先どんな道が待っているのか、決まっているけれど誰も知ることはできない。

高村光太郎の『道程』が思い浮かぶ。

つまり、誰も知らない私だけの道を進む以上、もはやそれは私が選んでいるといっても差し支えのない状況だと思う。

私の後ろに続く道が私を今へ運び、今が私を次の道へ誘ってくれている。

それは選択の余地のないものかもしれないが、来歴が個人と切り離せない以 上、そこにある種の責任を私たちは抱くべきなのかも知れない。

Radicalにこの選択肢のなさをつきつめると、本書で筆者も言及するように、罪なんてものは個人の外部にしかなくなってしまう。

ただ、それは個人の否定でもある。

私たちは確かにいて、自分たちそれぞれにしかない特異的観測点がある。それを享受する以上、理不尽さのグラデーションの中、個人を認め、背負っていくのだろう。

ただ、観測点は1つじゃない。

完全にシンクロできないが、尊重すべき他者がいる。
他者との関係性は予測不能な未来を抱えるもの同士の間で生じるわけで、不安定でありながらも可能性をはらんでいる予感がする。
 
死刑は、一つの観測点に罪を渡し、関係性を断ち切る行為である。

人工的な因果応報は仮初めの理不尽さからの逃避には使えるかも知れない。

ただ、損なわれてしまったひとは戻ってこないのだ。

抱えきれない理不尽さへの怒り、憎しみ、悲しみ。
私も身近なひとが理不尽さの渦に巻き込まれたなら当然浮かべるだろう。

そのとき、その感情のやり場のなさから、加害者の罪や責任を追及する感情は必ず浮ぶだろう。

その大きさがどの程度かは想像だにできないが。

ただ、損なわれてしまったひととの記憶を抱えながらも生きていかなければならない。

私は理不尽さと立ち向かうために、自分が理不尽さと同じ地平に居たくはない。

死刑制度は必ず浮ぶだろうやり場のない感情が、自分と理不尽さを許容する地平とを接続し得てしまう。
理不尽さと並び立ちたくない私からすると、こんな制度はなくしてしまいたい自動装置だ。

今現在、やり場のない感情を引き受けている方々ではなく、ただの巡り合わせで浮かべていない私たちだからこそ、より、残された人々の未来につながる装置に変換出来るのではないかと思う。

筆者はそれが政治的な力だという。

確かに、今回筆者が丁寧に説明し、訴えたように、
時間をかけて、単純化せずに腑分けして真摯に考える政治家たちによって、自動装置の再設計は成されるべきだろう。

しかし、そんな政治家いるのだろうか?
いたらとっくにこんな制度は捨て去られているのではないか。

この国の政治は、筆者が良く指摘するように、絶望的な腐敗がはびこっている。
ただ、全国犯罪被害者の会にも足を運んでいる与党議員もいるし、なかなか聞こえては来ないが、地道に自分のためではなく、政治に携わっているひとがいるにはいると自分は捉えている。

数はとても少ないのかも知れないが、そうした政治家を支援し、丁寧で誠実な転換が生まれるよう、自分も動いていかなければならないのだろう。
結果に結びついていない以上、何かが熟していないのである。

まだ、消化仕切れていない、考え至らない部分も多々残っている。
しかし、本書を通じて、明らかにこの制度を巡る世界の解像度が上がったのは間違いない。

本当に多くのひとが手に取ってくれることを願う1冊である。

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