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『平等』なんてありえない。簡単に平等と叫ぶ危険性。乙武さんのハロウィーン仮装ツイートを見て思ったこと、、

さて、気分的にも気候的にも少し冬を感じるようになったのは、わたしが11月だと気付いたからでしょうか。今日は乙武さんのハロウィーンツイートを見てnoteを投稿したいと思います。


乙武さんのツイートは見ましたでしょうか?五体不満足を生かして、身体中に包帯、血のりをぶちまけると言った壮絶なハロウィーン仮装をアップロードしていました。この画像を見て、『やばい』『不謹慎』『面白い』『優勝』など、さまざまな意見が飛び交っています。このツイートには、障害者が障害者として、健常者と心を通わして生きるヒントがあるように思えました。


やることとして、障害者も健常者もまずは『事実』をお互いに認め、『常識、つまり同じものの見方をできる人を増やす』ことが大事です。事実の認識や、常識は必ず差を作り出します。だって、ものが2つ有れば必ず差が生じるでしょう。それが良い。


人間は、アイデンティティがなければ精神が自立できません。アイデンティティとは、他の人との違い、社会との違いから生まれてくるものです。自分はこうだとアイデンティティを確立するには、自分以外、つまり社会はこうだと理解することに等しいのですね。ニーチェの言う『深淵を見〜』と言うやつです。むしろ、わたしは、社会を知ることなしに自分を見ることは不可能と思っています。他人との常識なしに自分はどう存在するように思えば良いのでしょうか?わたしにはわかりません。そこは無秩序な暴走?。


同じ常識の中で差を認めることが我々が生きることが大事なのであるならば、弱者にできることは『事実をみとめ、圧倒的に差を自ら打ち出していくこと』です。同じ基準、常識で他人を判断するからこそ我々は相手を存在すると認識できるのです。違う常識の人間は存在しないことと同じです。平等は物差しを取り払うことではなりえません。比較対象が2つ有れば平等になりえない。それは、平等というより、『現実を見ていない』、失礼、違う現実を見ているだけです。違う現実を見ている集団は、必ず争いを起こします。社会不安が生じるのは必然です。


背の高い人が背の低い人に『チビ!』と言う、チビが『チビじゃないもん!』と言うのは現実を見れていません。ここは、『はい!チビです!』と言える勇気が必要です。そうすれば、2人とも身長という常識、軸の世界に入ることができるのです。やがて、成長し、チビの方が大きくなったとします。のっぽは言ったことを恥じていけないことを言ったな、と成長する。チビはチビと言われる人の辛さがわかる。こういった経験の積み重ねが子供の成長には必要です。


平等は聞こえは良いですが、それはただ単なる現状弱者の現実逃避です。しかも、その現実逃避は弱者が存在すら無視される結果となる。これは極めて困難な状況を引き起こします。だって、違う世界に生きている人を誰が助けるでしょうか?ただ、現実には圧倒的に差がある。この差を見ないようにすることが、平等という聞こえの良いワードで隠されているのです。


乙武さんの話に戻します。彼は、自ら『健常者と自分との差』をアピールしています。ただ、そこに『共通理解として健常者、障害者という常識、軸』があることが大事なのです。彼が、『我々は障害者ではない!、平等に扱え』と言い始まれば、聞こえはいいでしょう。形式上の解決にはなるでしょうが、ほとんどの人の内心は認められない。そこには常識の欠如。違う世界に住むことが決定する違和感があるのです。同じ場所、スペースを共有するが、違う世界に住んでいる人間がいれば、すごく生きづらいと思いませんか?


相対主義がもたらす生き辛さの正体がわかってきたことでしょう。だから、みんな、現実を見ずにスマートフォンばかり見て、他の違う世界の人がそばにいることが気持ち悪くて見れなくなっているんですよね。


世間ではあだ名の禁止など、さらにアイデンティティの確立を阻止するような場当たり的な極めて浅い思考の方針が打ち出されています。実際問題、浅い親が浅い教師に浅い文句を言い、浅い解決方法がのちのちに深い問題を引き起こすことが目に見えます。一部の悪をなくすために、他の善を丸ごとなくす短絡的な解決方法を求める人がこの世にはすごく多い。それが、気がかりです。



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