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期待と希望

いろいろな人が、「期待と希望」についていろいろ書いている。
読むと自分の考えと違い、いつも違和感だけが残っていた。

昔から、「期待」という言葉が好きではなかった。
いつからか、「希望」という言葉が好きになった。

「期待します」というより、「希望をもつ」という方が好き。
“期待”いう言葉よりも、“希望”という言葉の響きが好き。

いつだっただろうか、期待が好きでない理由がわかった。

あなたが/私に/期待しているだけなのに、
期待を裏切られると、あなたは/私に/期待はずれだと言う。
そう、失望を顕わにすることが嫌だった。

「あなたが、勝手に期待して勝手に失望しているだけなのに
 私が、なぜ否定批判されるのかわからない。」

「期待してください」と言って、「期待するよ」ならいい。
でも多くは、お願いした訳でもないのに、勝手に何かを期待する。

期待通りにならなくても、勝手に期待したあなたが間違っていただけの話。
それを失望という言葉で表現することに、何とも言えない違和感がある。

「失望した」と言われた方は、たまったもんではない。
私に非がないにも関わらず、私に非があるかのように否定批判する。

失望したと言われた人や否定批判された人は、責任を感じて傷つく。
「相手の期待を裏切った」と。
感性豊かな人ほど真面目な人ほど、傷つき苦しんでいく。

否定批判したりする人は、そんなつもりでないことはわかっている。
ただ、期待感を相手に押しつけるのが嫌だ。

あと、期待という言葉には欲が潜んでいるように感じる。
期待に応えると、さらに期待する。
期待がどんどん膨らんでいく。

欲と同じで、期待には限りがない。
膨らんだ期待の大きさに、人は押しつぶされる。

相手から「期待してください」と言われても、
私は「期待せずに応援している。頑張って。」というようにはしている。

そんな時に目にしたのが、「希望」という言葉だった。

希望通りに進まなくても、私が勝手にのぞんだこと・願ったこと。
希望した人は希望通りにならなくても、誰も責めない。

誰かを責めたい気持ちも、よくわかる。
でも、誰かを否定批判したり、責めない社会の方が絶対いい。
そういう社会になってほしいと、心から願う。

あと期待には、“私の”強い思いがあるように思う。
だから、期待通りにされないと相手を責めてしまう。
怒りが、そこにあるから。

希望には、“相手への”優しい願いがあるように思う。
だから、希望通りに進まなくても誰も責めない。
優しさが、そこにあるから。

甘いと言われるかもしれない。
それでも、優しい社会が拡がってほしい。

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