歌い手さんたちの”社会進出”黎明の時代。

「歌い手が、事務所に所属して商業CDを出すようになった」と軽く書いているが、これはすごく大きなことだった。見方を変えたら「その行為こそが、この文化を逆に潰すのでは」とも思えたので、みんなとても慎重になっていたと思う。まず基本的に当初は「歌い手は経済的な活動をしてはいけない」という意識がリスナーさんからの目にもあったし、我々演者も分かっていたので「そういう見え方(経済活動をしていない)」になるように色々なことを調整してモノを作っていた。そんな恐る恐る行動していた時期から、それが当然になるまでの経過は確かに感じたと思う。

僕が東京に出てきた経緯は直前のエッセイを参考にして頂きたいのだが、そんな頃はいろんな事においての過渡期だったので、例えば歌い手がどこかの音楽事務所に所属したとしても、事務所は「従来のやり方」というレールに乗っけようとしたがった。つまりはすでにプロデューサーが居て「こういう方針で行くよ」と決め、そして言われた通りに動く…というのが当然だったのだ。たとえ「顔出しをしないで活動するのが”歌い手”ならではの文化なのです」と言ってもなかなか分かってくれなかったし「そのやり方は、すごくガツガツして見えてしまいます」と説明しても「それじゃ売れない!当然、新人歌手はこういう事をみんなやってるんだよ!」と言われてしまうわけだ。逆に”従来の音楽業界”に疎かった僕は当然、弱かった。

音楽業界はすでにCDの売れない時代へと突入しており、どこの会社もとても焦っていた時期だ。どうにかして売上を上げようと必死になっている「旧ギョーカイ」な現場に、歌い手という"セルフプロデュースのたまもの”で出来上がっている概念の様な存在がお世話になるというのは、”思想の違い的に”まだ早かったのか…などと思い始める。もちろん、あの頃からずっと同じ事務所で頑張っている人もいるし、途中で抜けてフリーになった人も居た。その様子をずっと遠くから”どうなるんだろう”と眺めていた人も居た。

沢山の人にこの世界を知ってもらいたいと飛び込んだ世界だったが、その当時の僕がやっていたことは、時代にそぐわなくなってきた世界にいる大人たちの言うことを聞くことだけに過ぎなかったと思う。そんな大人たちを批判してるわけではなく、そういう状況で「これからは違うんです!」と強く言えるだけの度胸も、説明できるだけの根拠も持ち合わせていないままに走っていただけだったのかもしれないので、あの頃ご迷惑をお掛けした方々にはただただ申し訳ないと思っている。ただ、あの空回りの時代があったからこそ、他の歌い手に対して「今後どうやって活動していくのか」という指標というか、例のようなものをほんのわずかでも作れたのではとは思っている。「こう動いたらこういう結果になるのか。知れてよかった。」と思える僕の性格ゆえだと思うし、今も良い方に作用していると思う。

そして僕はしばらくして、また”無職”になってしまう。1年以内に2回も職を辞してしまった僕は「これはもう見るからに社会的に不適合な人だよな」と思っていた。そんなことがあったから「やはりこの文化は、この文化の中でやり方が作られていったほうが自然なことだろう」と思い、以来、指示を受ける状況に自分を置かないようにした。「何かの組織の中では、自分の思ったことはやりにくい」と悟った。

家がなくなってしまった僕はその後、少しだけ実家に帰った。そして、実家と東京をまた往復しながら活動を続けることになる。

その頃、自分のイベントを作る時にお願いしていた制作会社があったという理由で、打ち合わせのために何度も原宿に行っていたのだがある日、その会社から最寄りの駅まで歩いて帰る途中にふと横を見たところ建物の基礎工事をしているのを見つけた。僕は「あ、なんかここに住む気がする」と思ったので、基礎工事をしているおじさんに「すみません、これは賃貸物件ですよね、この建物の管理会社はどこですか?」と聞き、教えてもらった管理会社に行き、まだ建物が建ってないにもかかわらず、そのまま契約してしまった。(…が、契約するためにとある事務所に一時的に所属させてもらうなど面倒極まりなかった)

以前、東京に住めると思っていたのに、フタを開けてみたら神奈川県だったという経験があった僕は「THE 東京」とも言えるところに住んでみたかった欲があったと思う。原宿の家は、3階建てで、その1階の一部屋だった(重い荷物を出し入れすることが多かったため1階にした)。玄関を入ってすぐに台所があり、左にあるドアを開けたら部屋が一つという、いわゆるワンルームの作り。ベッドとパソコンそしてキーボードを置いたところ、歩けるスペースは畳一つぶんも無いくらいになってしまった。

近くに昔ながらの喫茶店があって、よくそこで打ち合わせをした。「Stars on Planet」というコンサートや、いろいろな歌い手さんの初期のワンマンライブの構想を練ったのもこの喫茶店でだった。喫茶店の帰りしな、打ち合わせをしていた人に「オリンピック、日本がまた立候補したんですってね(日本は2016年の五輪にも立候補していたが落選していたので)」と言われ「2020年の…でしたっけ?もし決まったとしても、その頃には僕、さすがに何してるのか分かりませんね」と笑ったのを覚えている。

この頃は本当にお金がなくて正直、”どうやって生きてたのか”さえ思い出せない。イベントを作るために払う金額がとても重かったのだ。「家賃を値引いてほしい」と部屋の管理会社に電話することも一瞬考えたことがあった。部屋に唯一の窓を開けるとそこはその建物の駐輪場だったのだが、契約した時の間取り図をふとみるとそこにあるべきなのは「僕の部屋のバルコニー」だったはずなのだ。

僕はきっと、実際には行くことのできない”脳内補完型バルコニー”にも家賃を払い続けていたのだ。だが、管理会社から「バルコ兄さん」などとあだ名を付けられることを恐れて、家賃の交渉はできずじまいだった。

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