「あ、多分僕、会社辞めるんだろうな」

「ふっ」と思った。__”ふつふつと湧き出してきて…”という感じではなく、ある瞬間にパッと、そう思ったのだ。僕がこの会社に来て6年を少し過ぎたあたりのことだった。僕は相変わらず、休みの日を使って「この界隈」をいろんな人に知ってもらおうと動いていたし、コンサートイベントを作ったり、会いたい人に会いに行ったりしていた。多分、以前のエピソードで話した”ジョナサン3人組”に会った頃だ。

まだ書いたことがない話があって、それは僕が、この人生において一番つらかったときのこと。[でもいろいろ考えて、その話はココではまだ書かないことにした。] その”つらかったとき”は、「絶対会社は辞めない」と決めていた。自分じゃない他人のせいで心が折れて、会社を辞めることになるなんて悔しい、って思ってたから。だけど、その”つらかったとき”が過ぎて、「もう自分で決められるな」って余裕が出てきた時に、「ふっ」と、よぎったんだと思う。

いまでこそ、東京で暮らしている歌い手や奏者やボカロPは増えたけど、その時は全然居なかった。実家がたまたま東京だった人か、専門学校で上京してた人くらいだった。だから、すでに社会人だった僕が会社を辞めて東京でこういう活動をする」って決めた時は周りからも「まさか」って言われた。そりゃそうだ、そもそも生活していけるような活動じゃなかったんだから。

僕は、「あ、なんだろう。こういう気持ちになったこと、前にあるぞ。これは多分、僕、近い内に会社を辞めるはずだ。」って思った。大学の話もそうだったように「僕はこの後こんな行動をすることってあり得る?え、それやっちゃうって面白くない?」と思ったら「やらなくちゃ気がすまない性格だ」ってことを、自分で分かっていたから。すぐに机から立ち上がって、総務のお姉さんに聞いた。「もし僕が今日ここで辞めるって言ったら、僕はいつ辞められるんですか」__総務のお姉さんは驚きながらも「ま、まぁ、一応普通は2ヶ月から3ヶ月後くらいだと思いますけど」って答えてくれた。そうなんですね、わかりましたと言って机に戻った後、しばらくして課長が(総務のお姉さんが伝えたらしく)「お前、辞めるのか?」って聞いてきた。

「わからないんですけど、今日すごくそんな気がしたんです」

これから先どんな未来になるのかなんて全然分からないけど、いつか自分の人生を人に話す日が来た時に、その話が面白いほうが絶対いいよなって思う。そのために飛び出す勇気と体力はあるのか?って自分で自分に聞いたら「もちろん!」って答えが返ってきたので、僕はその後すぐにまた総務に行って「可及的速やかに辞めることにしました」って伝えた。「転職先はどちらですか?」と聞かれた。__「さぁ。何も決まってません。」総務のお姉さんは固まっていた。

僕は、その時にお世話になっていた埼玉のラジオ局の人に電話で相談をした。僕がとにかく「ラジオでボカロ曲や歌い手の歌を流してください、いつかそれが普通になる日が来ると思うんです」と頼んでいたものだから、その人はよく僕の話を聞いてくれたこともあって、僕はその人のことを信頼していたから。(まだJASRACにボカロ曲が登録される流れが来るか来ないかのあたりの話だから、実際にかけるのは色々難しかったんだけどね。)

そしたら、「事務員くんは、多分東京に来たほうがいいよ。何か生活していける方法を考えよう。」と言ってくれた。結局どうなったかっていうと、僕は兵庫に居た「ピコ」という歌い手さんに「一緒に東京に行かないか」と誘って、そのラジオ局の人が紹介してくれたとある事務所に2人で所属することになった。僕は新しい仕事がもらえるし、家も借りられて生活できることになったから、この方法が一番良かったんだと思う。僕の東京での最初の仕事はピコ君のマネージャーだったんだ。

でも僕は「そんな不確かな活動のために仕事を辞めるなんておかしい」って他人から言われるのが怖くて、ずっと隠してた。今でこそ「他人の言うことなんて気にしなければいい」って思うかもしれないけど、それは、今が存在するから言えるわけで、当時は絶対言えなかった。(歌い手のぽこたが先駆けてそれを世間に言った時は素直に「すげー」と思った。)

「歌い手が商業CDを出し始める」ということにあまり世間から抵抗が来なくなってきたのは、こうやって歌い手が事務所に所属してそこでCDを出すという、僕たちみたいなできごとが増えてきたからだと思う。それまでは界隈が「そういうこと(経済活動)をしないで歌うことこそ、歌い手に課せられた、歌い手としての見え方であるべき」という意識に包まれていたので、なかなか難しかった。これが少しずつ変わって行った先に、今皆さんが見ているこの界隈が存在しているわけだ。

僕の”上京物語”は、こんな感じ。

ん… ”上京物語”とカッコよく言うのには、ちょっとだけ語弊があるな。最初に会社から与えられた家は、神奈川県にあったから。

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