ライブにオーケストラを入れたい!(後編)

松田君と一緒に制作をすることで、今までの苦労がウソのように楽になった。オーケストラの世界では普通とされている”礼節”のようなもの…例えば、年齢や学年によっての関係値など…だったり、ギャラに対する考え方だったりなどを考える苦労がなくなった。そしてなにより、アレンジについての素養があるから僕がいちいち楽器ごとの音域を考えて組むよりも数倍早かった。音がどのように重なると一番良いのかなども含めて考えてくれているので演奏が格段にきれいになった。

ただ、まだ予算の都合でオーケストラを呼ぶことは叶わず、弦楽器を8人お願いして、それに管楽器を数名入れるスタイルになっていった。その後数多くのレコーディングや舞台で演奏してくれることになる丹澤誠二君もこの頃に参加してくれた人の一人だ。

さて、時を同じくする頃、ジョナサンで笑い合ってた3人がソロライブを開催し始める。この頃ようやく「歌い手一人だけによるソロライブ」というものが定着してきたのだ。佐香君がソロライブをやるというので、そらる君と見に行くことになった。会場は渋谷にあって、昔は映画館だった所を着席型のライブハウスに作り直したところだった。「オレもあそこでやりたいです」とそらる君が言うので、「わかった」とだけ言って後日その会場の担当者に電話したところ「個人には貸せない」と言われてしまった。なんだかいつぞやの気持ちを思い出した。

そこで「では誰か、制作ができる会社の担当者を紹介してください」と返したところ、わりとすんなりと「わかりました」と答えが返ってきて、担当(以下、U氏)が付いた。昔では考えられないほど、この界隈が信頼されてきたと実感した瞬間だった。そらる君のワンマンライブのお客さんは300人になった。

そらる君の初ワンマンの名前を決める時。「そらるのアコースティックライブだから『そらあこ』だな」と言ったら「そこは普通に考えて『あこそら』でしょ。センス無いっすね。」とたしなめられた。そういえば、虹色オーケストラを作るときの企画書に「40mP's LIVE」と書いた時にも「センス無いっすね」と40mPに言われたのを思い出した。もしかしたら本当にセンスが無いのかもしれない。当時の自分の沽券に関わるので弁解しておくと、あれは仮タイトルだったのだ…泣

そらる君の初ワンマンが終わる頃、僕は、あの3人…つまりジョナサンに居た3人を一同に集めたライブを企画したいと考える。その時期は来たはずなのだ。(※結局、佐香君は諸般の事情で1回目には出られなかったのだが、その後参加してくれた)__そして、U氏に「なにか漠然としたテーマの中で続けていくイベントがあってもいいと思う」と話し、宇宙とか天体とか、そういうテーマにしようと決めた。仮タイトルは「星のコンサート」。以後ギリギリまでずっとタイトルが付けられずに居たのは、もしかしたら自分のセンスを疑っていたのかもしれない。「もう限界です、これでは告知できません!」とU氏に言われ、ついに絞り出したタイトルで6年やることになった。

「Stars on Planet…で、お願いします…」


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オーケストラは予算の都合でなかなか入れることができなかったが、それなりの編成にはなってきた。2年目を迎えたStars on Planet(以下スタプラ)も、いつもの通り松田君と打ち合わせをしつつアレンジを決めていく。しかし、順調だったリハーサルの、最終日だったある日の朝。「松田が来れなくなった」と連絡が入る。理解ができなかった。理由はなかなか明かされなかったが、とにかくここにいる団員に対して指揮を振る人が必要だったので「どうするの」と聞いたら「代わりの人が来てくれるそうです」と言われた。現れたのは体格の良い青年で、名前を永原君と言ったが「自分にも全く状況が理解できていない」という表情だった。挨拶もそこそこに、とりあえず指揮を振ってもらう。そして、本番は、急場しのぎではあったが無事に開催された。

松田君はその数日後に、亡くなってしまった。

スタプラが無事に開催されたかどうかを知っていたかも今となってはわからないが、後日聞いた所によると彼は最後の意識の中で「今日は大事なリハーサルだが、自分が行けないため永原君を」と言い残してくれたためそうなったそうだ。詳しい状況については差し控えさせて頂きたいのだが、いまはとても感謝の気持ちでいっぱいだ。

虹オケとスタプラを並行して開催する数年になったのだが、永原君には今までの事をすべて説明して、そのまま引き継いでもらうことになった。そして、ついに2014年の12月27日に、虹色オーケストラとして、僕は兼ねてからの念願だった「フルオーケストラとバンド」のコンサートを実現させることができたのだった。

この一連の流れの中、同じ様な規模のコンサートライブがいたるところで開催されるようになった。もちろん僕もそれらにはなるべく行くようにした。ある日行ったオムニバス形式ライブ(たくさんの人が出るライブ)で初めて聞いた彼はとても声が高く独特の雰囲気だったのだが、縁あって後にスタプラにも出てもらったし、家にも遊びに来るようになった。そして、その”彼”とそらる君とでその後「After the Rain」というユニットを組み、世界をどんどんと広げていったのである。余談だが僕はその「After the Rain」が結成される際の、放送の司会を頼まれている。

”彼”というのは、まふまふ君のことだ。そして、まふまふ君はその後「引きこもりでも◯◯したい」というシリーズを率い始め、今に至る。シリーズ最初の作品であった「引きこもりでも旅がしたい」のDVDに僕が出演していたのは、時代が変革していく事を示す、2種類の世代による握手のようなものだったのかもしれないと述懐する。

時代はメディアミックスの渦中。「歌い手」という言葉に伴われていた閉塞感のようなものは音を立てて変貌を遂げ、さまざまなメディアと融合していく様子が見て取れた。そしてその後の数年で、ライブ会場の規模はどんどん大きくなっていった。

先日、そらる君の10周年のコンサートが幕張メッセで開かれ、オーケストラを組み込むために参加させてもらった。「オーケストラとバンド」をどう融合させればよいのかと考え始めたのが2008年。要した期間はくしくも、同じ10年間という長さだった。今回の終演後、僕は永原君と固い握手をした。「今回ので完璧ですね。」「ついに来たね…ありがとう。」

そらる君、10周年、おめでとう。

そして、おめでとう、オレ!


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