ツインレイと両性具有性の精神
実はもともとツインレイというものが『両性具有への到達性』という話が書かれた原文の和訳を呼んだ。
リサさんというツインレイのメッセージを受け取った人の話である。
もともと、あんまり大元に興味はなく、私は私自身を自己分析しているだけでもあったのもあって、原文を何度かは読みはしてもそのまま自身のなかで定着していたわけではなかったんだと思う。
で、けっきょく、この両性具有性なんだけれど、私も今は両性具有の精神を理解しているところに至っている。
面白いことに、私は寝起きバナに男性になっていることがある。朧気に男性であり、どうにも女性には理解しがたい感覚を得ていることを知る。
なるほど、男性とはこのようなものなのか——と、理解する。
だけれど、起きれば、残念ながら私は女性で。
女性だからこそ、男性の感覚はわかりえない状態に戻っている。
あのときの感覚を再び感じたいと思っても感じることはできない。だけれど、男性と女性のつくりや感じ方がまるで違うものだと理解するには、とてつもない不思議な感覚とも言える。
満たされる心の違い・・・・かな。
さて、そんな感じで、一応は両性具有にまで精神が到達したかなとは思っている。
それはツインレイの統合とも言える。
たぶん、この両性具有への到達までに、統合するべき異性の意識を等身大の男性の丸ごとひとつを受容しなければならない。これが必須条件になる。
だけれど、男性の丸ごとひとつを受容するってことが、なかなか難しい。
私も、この愛する経緯で最後は下血していたのもあって、ものすごい体に負荷をかかるよなことをやってのけていたと思う。
私は彼を愛したけれど、それはほぼ強い信念により達成されたにすぎない。そればかりが正しい道としてしか知らなかった私の愚かさのようにも感じられるほどには、私は信念バカだった。
そして彼を愛したとはいえど、私が愛したのは、私の中に存在している両性具有となる異性の部分を丸ごと愛したのである。
私は彼を愛したのではなく、私のなかにある異性の部分を丸ごと愛しきり、私のなかに両性具有を成立させたとも言える。
私が彼を通して愛したものは、私が私のなかで認識できていない闇の部分である。
私は、見知らぬうちに、私の中にある異性犠牲にして自分の女性と言う概念を生み出していただけに過ぎないのかもしれない。
この両性具有までの到達性の間に、私たちは『自分の異性性を子供時代から育てなおすこと』に意味がある。
それはツインレイの相手の人生を追従するような世界だった。それは愛おしい時間だったと、私は思っている。
子供時代の私たちは、多くの幻想の世界にいるのだと思う。
私たちは、自分の世界が今はすべてだけれど、大人になったら子供の頃を忘れてしまうけれど。でも、もっとこの世は、自分の想うような世界だったのかもしれない。
世界は希望に満ち、世界は理想に溢れていた。そして、自分のなかには多くの他人たちが住まい、私たちは私たちであることすらできずに、私たちはあなたたちを多く吸収しながら『自分』を樹立させていく。
だけれど、大人になってまでも、この領域に触れ続けていることは、単純に病気だってことも言える。
これがどんなに素晴らしい経験であろうが、ツインレイというものが素晴らしいものであろうが。
この世界観を肯定してはならないし、だからといって頭ごなしに否定するわけにもいかない。
ツインレイの世界観がもし、両性具有性にあるのであれば、両性具有に至るまでの経緯では、精神疾患患者としての生きる道そのものだと思う。
大人になったのに、再び子供になり、子供時代の存在となって生きることは、たしかに病気なのである。
そして、そこから脱却していく経緯で『脱却していければ』、最終的にはツインレイだと、両性具有への成長過程だったと言葉にすることができる。
だけれど、最終的に両性具有にまで到達することがなかったら、単純にそれは『ただの病気』ともしても考えなければならないとも言える。
私たちが大人になり切れずに、アダルトチルドレンやインナーチャイルドの癒しを持っているように。
両性具有のもうひとつの性別が『大人』にまでならなかったのであれば、同じようにインナーチャイルドの癒しを求めているのかもしれない。
そして、ツインレイ。もし、あなたがツインレイだとして『自分の両性性を構築している』のであれば、ひとつの異性性をツインレイが体現しているというのであれば。
そのふたりは同じだけのベクトルを持っている男女である。
両性具有だとしても、子供から大人までいるということ。
子供の両性具有者もいれば、大人の両性具有者もいる。
これは精神の話である。
精神のなかでも、子供の両性具有となったケースもあれば、大人の両性具有となったケースもあるだろう。
統合の量である。ツインレイの相手をどれだけ愛したのか、どれだけ受け入れることが出来たのか。否、ツインレイを通して自分のなかにある等身大の異性性をどれだけ受け入れることが出来たのか。
自分の背中に立つみえない異性を、そして、みている世界がまるで違う異性を、どれだけ愛することが出来たのか。
私たちは等身大に自分を愛している分しか、相手を愛することができない。
自分のこと以上に愛することがどれほどに出来たのか。これがツインレイのひとつの世界観。
たぶん、ただ、ツインレイっていう用語を知らずに話を進めるのであれば、これはただの解離症だったと判断するのが妥当だと思われる。
個人的に、両性具有性の精神へ到達するためには、この病理に触れていくことは確実に重要だと思うが、それでも、私たちは子供のままでいるわけにはいかない。
だからこそ、大人になっていくと「子供のままじゃない」状態になっていくとき、過去を振り返るかの如く、あのときの黒歴史みたいなものが残るんだと思う。
二十歳そこそこになったとき、高校生にバカやっていたことを黒歴史だと思うように、振り返って、このツインレイの期間も黒歴史のようにしか感じられなくなっていく。
大人になるって過去を振り返ってみると「あのときはバカだったなぁ」って思うところにもあるんだと思うから、やっぱり、私はツインレイの期間を恥ずかしさを含めてしか語ることは出来ないけれど、大事な期間だったとは思っている。
そして、大人として。ひとつの人生として、この地球において『ふつう』の概念からすれば、普通ではない事実をも受け入れておくべきだと個人的には思っている。
現実を放棄してはならないためである。
この異常性を正当として捉えるわけにはいかない。
そして、この異常な両性具有の精神が人口の50%をしめたとき、私たちは正常となるだろう。
そのときまで、ひっそりと息をするようにして生きていくことが得策だろうと考えている。
少なからず、これが『正解』だとは思ってはならない。
マイノリティーであることは勲章ではないし、これは名誉でもないということ。
ただ、そういう人間も生まれてきてしまったという世の原理のひとつに抜擢されたのが私と言うだけ。
それから、この記録については『哲学者の薔薇園』にて描かれているものがそっくりそのままのステージ展開を教えてくれている。
たぶん、この作者も経験したことを書き残したのだと思われる。
古来からあるものである。
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