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仏魔を追求する

日月神示をデータベースにいれて分析しやすいようにできないかなとか思って、連日、ひたすら数字と格闘。
私がめざしているのは、分析しやすくすることだから、ひたすら分析のためにデータベース作ってる。

なんかもっと生産的なことはできないのかな≡⊂( ^-^)⊃とか思いながらも、今は日月神示を終わらせたいターン。

今回は『仏魔』とかクラヤミの世とかの話。
つまりだな、仏教が入ってきたのは聖徳太子のときだった。
聖徳太子のおとんが確か漢学者で仏教についてを聖徳太子に伝え、また、そのお話が当時の天皇である推古天皇に伝えたら「とりま、拝んでみたら」的なノリで(神道の人ってなんかこう「えーいいじゃんいいじゃん、やってみよー」みたいな軽いノリで新しいものを取り入れる気質だよなと思う)寺ができた。

まぁ最初はみんな「なんだこいつ」みたいな感じで、特に拝むことはなかったんだが、疫病が流行って「寺に拝んでみたら案外、助けてくれっかも。」ってなって、拝むことで疫病が治まったって話。

そこから仏教が流行るようになった。

これが一応、仏教が伝来してきた始まり。

日月神示では『仏魔が入ってきてクラヤミの世』が完成したみたいな感じなんだ。
とりあえず日月神示的にはクラヤミの世になる経緯を岩戸閉めと表現しているんだが、わたし的にはもう既にこれは日月神示的な原罪の話ってことで落ち着いている。

つまり二元性が安定して生まれたって話で『岩戸』とは、岩によって表と裏が生まれたよ、ふたつが相いれなくなったよって話をしている。

この仏魔とは『魔』っていう概念なんだと思う。
悪魔とか、そういう悪いものを定義しちゃった。

なんならこの疫病っていうのもミソだったような気がする。
今回も疫病がめっちゃ流行ったけど、実際、寺に拝みに行ったんはどれぐらいいたんだろう。
そっちよりも、寺がお葬式して儲かったって話の方がでかい気がする。

もともと日本は火葬ではなくて土葬だと思われる。
そこから『火』が入ってきたこともでかかったんじゃないかなって。

イザナミとイザナギが子供として『火』をうんだときに、岩戸閉めが始まって。仏教では死によっての商売が始まった。

で、今回の疫病はどこが発生源だっけ。あれ、あれ?おかしいな、目にゴミが(つд⊂)ゴシゴシ

とりあえず、そういうことなんだろうなと思う。


縄文人と弥生人のうち、弥生人は陸地からきたって話で、縄文人はもともと住んでいた水の民(レムリアなのか?)として。
縄文人は『水の心(みつく)』で弥生人は『火の心(ひつく)』なんだと思う。

このふたつを統合させていくには、火の思想を私のなかに内包していく経緯が必要だったと思うんだが、、

そういえば、今まで出会った人たち。確かに仏教系の人たちだったなと思う。ありとあらゆる形で仏教思想で、みんな七難隠す色白だった。

あたいは色黒≡⊂( ^-^)⊃のめっちゃ縄文っぽい雰囲気ある(  ー̀֊ー́ )

そういえば、墓っていう概念も仏教だよな。

この『死』っていう概念をどうにかこうにか地獄とかの概念で構築していくことで最終的には『仏魔』になる。

ナミによる火による死は『仏教』を産んだ。(ナギが拝んだかは謎だけど)

で、ナギは水による生は『神道』を産んだ。


そういえば、仏教的な思想を私はものすごく守ってきた人だった。
自分のなかに戒律を作り、それを守ること。人のために生きること。
これはもう基本的に仏教寄りの思想なんだよな。

でも神道はさ。
「好きに生きよ」みたいな、生きることを目的ともされている気がする。
でも仏教は、悪いことしちゃいけないよ、何故ならば死後に怖いことがあるからね的な感じだろうか。

けっきょく、ナミはこの地上で『みんな、なかよく平和にいきるためには死という概念と地獄という概念が必要』として黄泉の大神さまとなられたわけだ。

そして生を尊ぶナギは『生きる世界』を産んだ。

このふたりはお互いに、そもそも子供を子育てしていたに過ぎないんだろうなって思う。

地獄の概念があるから、私たちは死ぬって意味がわかっているからこそ、人に優しくする。
この地上はやっぱり地獄なんだろうなと思う。

とりあえず、原罪を破壊していくと『相容れないものが相入れる瞬間』がやってくるんだと思う。

つまり仏教と神道は真逆の思想だよ。
共存させてみよっていう神からの試練――?

最終的になとりは『この世は皆、成長の世界(っ`•ω•´c)』と結論づけ、この世に地獄などありはない(  ー̀֊ー́ )みたいになっていた。

でも、もともと地獄にいたんだよな。

転じたみたい。くるっとひっくり返った。


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