【小説】1500W40秒

 入社に際して新調したスーツは、日々の怒声と疲労を吸ってあっという間にくたびれてしまった。晩飯を作る気にもなれず、男は無造作に手に取った豚焼肉弁当をレジに持っていき、金額も見ずに千円札を抜き出す。

「温めますか?」

 密閉性に長けたイヤホンの隙間をすり抜け、その声は男の耳朶を打った。うずまき管がギョッとした拍子に前を見やると、女性店員の顔にはキョトンと書いてある。キョトンと太字のポップ体で書いてある。

「いや、あ、えーと、是非お願いします」

 咄嗟に答えてしまった。部屋にレンジがあるのにも関わらず。是非ってなんだよと男自身も思ったが、意にも介さず彼女は慣れた手つきで弁当をレンジに閉じ込める。レンジの曇った窓を見つめる彼女の横顔を、男はカウンター越しに何度も盗み見た。スマイルに万引きはないはず。そう言い聞かせても、どこか罰の悪い40秒を過ごした。

 新生活。まだ散らかりきってもいない男の部屋で、豚焼肉弁当が淡い熱を放っていた。

 翌日からというもの、仕事帰りの男の足取りは軽やかに、砂地を跳び駆けるトムソンガゼルが如し。溜め息とともに吊り革にぶら下がっていた電車はジャングルで、陽気な猿よろしく揺れに合わせて軽快な身のこなし。目をハイエナ色にして駅前のコンビニに寄ると、最短ルートで豚焼肉弁当を掠め取り、そのままレジに直行。その様はまるで獲物を急襲する鷹そのもの。

「温めますか?」
「あ、お願いします」

 温めている最中は、彼女とともにレンジの中の豚焼肉弁当を眺める。同じ景色を共有することにより親近感をアップさせる効果がある。と男は信じて疑わない。ライトアップされながら回転する豚焼肉弁当は、男の目には夢の国のエレクトリカルなパレードとして映った。ここは郊外のコンビニエンスなストアなのだが。おっと、弁当に気を取られていてはいけない。真の視覚対象は女性店員である。ぼんやりレンジに顔を向けつつも、シマウマも羨む男の周辺視野が彼女を捕捉する。1日24時間8万6400秒。この40秒が男の残りの8万6360秒を支えている。40秒間、男は一人っきりで、彼女とニ人っきりなのだった。

 なんとか彼女の記憶に入り込もうと、男は同じ日々を繰り返した。常に豚焼肉弁当を買っては、温めてもらった。家にレンジがあるという罪悪感はあっさり消えた。彼女によって40秒加熱された豚焼肉弁当は優しい温もりを帯び、いつでも男の腹と心を満たした。

 そうして足繁く通ううちにわかってくることもあり、例えば彼女は火木金の夜シフトで入っているらしい。だからと言って、待ち伏せや後を付けるようなことはしない。近づきたいという思いより、離れたくないという思いが勝っていた。交差ではなく、平行こそ男が切望する関係だった。レールは平行だからこそ、列車がどこまでも旅できるのである。

 繰り返しの日々の中でのもう一つの進歩は、名札から彼女の名前を知れたことだ。苗字は見たこともない漢字一文字だった。そのヘンとツクリを脳内で大事に大事に反芻させながら徒歩12分の家路を急いだ。

 スーツを着替えつつパソコンを起動して、フェイスブックと豚焼肉弁当を開く。フタに閉じ込められていたかすかな湯気が、香りを残しながら8畳1Kに霧散していく。油で照り輝く薄い豚肉と白飯をほおばりながら、パソコンの手書き入力スペースにヘンとツクリを丁寧に書き入れる。入力途中でもう目当ての漢字が候補に挙がったのだが、最後の一画まで書ききった。触れたことのない文字と彼女に対する礼儀の念がこもる一画だった。検索バーに残りの名前を祈るように入力すると、一人の同姓同名がヒット。コレか?期待と懐疑心が競い合うように鋭く膨らみ、尿意となって男をせき立てる。一旦トイレに立って精神統一。普段より念入りに手を洗って身を清める。再びパソコンの前に座る。無意識に正座。その一挙手一投足には宗教的な畏れすら垣間見える。意を決してクリック。プロフィールに遠く写る女性は、小さくて顔まで判別できない。思わず身を乗り出したはずみに肉のタレがシャツの裾にベタリとついたが、下スクロールに躍起になっている男は気づきもしなかった。

 以後、月に一度の投稿ペースのこのアカウントを巡礼することが、男の日課になった。

夏のある日は、2人で遠くの花火が開く音を聞いた(レンジを見ながら)。

秋のある日は、月が綺麗ですよ、と心の中で伝えた(レンジを見ながら)。

冬のある日は、チキンをニつ買って、クリスマスを祝った(ニつとも一人で食べた)。

 延々とループする日常は、やがて口内炎となって男に巣食った。連日のコンビニ飯に起因するのは明らかだった。舌先で緩やかなくぼみを撫でる。最愛の人からもらった指輪にそっと触れるように。濡れた傷口が訴えるように痛む。どれだけ40秒が積み重なろうとも、レジカウンターを挟んだニ人の距離が縮まることはなかった。果てしない平行関係を望んでいたはずだったのに、いつも彼女に見つめられている豚焼肉弁当に、男は倒錯した嫉妬すら覚え始めていた。

「すみません。本日ちょっとレンジが故障してまして。えーと、どうしましょうか、お弁当、いつも温めてますよね?」

 初めて「温めますか?」以外のフレーズが投げかけられたことと、彼女が自分のことを覚えていることに、男の内心はカーニバル開催中である。ひたむきな努力が結実していたことを喜ぶと同時に、男はうろたえた。こんなシチュエーションは想定外だ。その想定外は、平行なレールの上の置き石。

「あ、大丈夫です。うちにレンジあるんで」

 脱線横転した男の思考から踊り出た言葉に、彼女の顔に久しぶりに書かれたキョトンはやはり太字のポップ体なのであった。

 なんてことを言ってしまったのだ! 家にレンジがある輩がどうして毎回コンビニでチンしてもらうというのだろうか! これでは今まで意図的にココでレンジを利用していましたと言ったようなものだ! やましい気持ちがありますと告白したようなものだ!

 脳内には言い訳めいた言葉たちが唸りをあげて渦巻いているが、その激しさと裏腹に男の口からはそよ風の一吹きも出てこない。火炎放射器のごとく顔から火が吹き出ている。穴があったら入りたいし、小さくなる薬があるのなら飲みほしたい。レジ横のおでんの海に飛び込んで、ごぼうを追い出したごぼう巻きに収まり、いつまでも鍋底で煮られていたい。悲しみの出汁を永遠に出し続けたい。

 冷たいまま帰宅した豚焼肉弁当は男の胃に入ることはなく、翌日、会社に行く途中のコンビニのゴミ箱に捨てられた。

 今日も俯きながら通り過ぎた。明るい店内から夜道の男が見えることはないだろう。去りつつある寒さとともに、レジ横のおでんももう姿を消しているかもしれない。彼女との時間を失った男の生活は、肉のない豚焼肉弁当のようなものだった。安い飯粒は、噛んでも噛んでも甘みが増すことはない。わずかに存在していた風味は、口と鼻と言わず、日々のあらゆる穴から逃げていった。ただただ咀嚼の度に径が細かくなっていくだけの白い粒子。8万6400秒は日毎噛み砕かれていって、味気のない1秒1秒を男は過ごした。

 脱皮するかのようにもそもそとスーツを脱いで、しかし着替えたところで気持ちが切り替わるわけでもない。パソコンを起動させると、惰性でフェイスブックを開く。マウスを握れば手の癖になっている。あの日、文字通り祈るように検索窓に彼女の名前を入力したのに、今となっては何の期待も伴わない形式的な儀式になっていた。だから、そこに新しい写真が投稿されていたことに、まだ続くと思った下り階段が急に終わったかのような衝撃を受けた。その楽しそうな飲み会の集合写真には、ガタイとアイソのいい店長や、知った顔の留学生バイト君も写っていた。彼らに囲まれて微笑む彼女は、顔の横に白い正方形の板を掲げている。今日は何曜日だ!? 画面の中の寄せ書きに釘付けだった目をパソコンの右隅に素早く走らせる。木曜日! まだ彼女は居るかもしれない。脱いだばかりのスーツに袖を通すとそれはまだ体温が残っていて、準備万端だと言っているようで頼もしい。コンビニへ駆け出す姿はチーターほど俊敏ではなかったが、レジメンタルのネクタイがトラの尾のように力強くはためいていた。

 自動ドアを半ばこじ開けるようにして入店し、息も絶え絶え豚焼肉弁当を掴み上げ、そのまま彼女のもとへ。レジに手をついて息をする男を見て、彼女は僅かに驚きの表情を浮かべ、目線だけでキョロキョロしている。

「あ……温めますか?」

 口は酸素を取り込むのに必死で、耳馴染んだフレーズに口馴染んだフレーズを返せない。荒い息をつきながら縦に大きく何度か頷く。誰が直したのか、いつもの旧型レンジが加熱を開始する。細かく震えるオーンという低い音を、弁当がくるくると巻き取っていく。橙色のぼやりとした光の中を回る弁当を眺めていると、これまでの彼女との思い出がゆらゆらと立ち昇ってきた。これは現代式の走馬灯だ。残念なことに、そこには豚焼肉弁当のおかずのバラエティのような貧弱な思い出しか巡っていない。何かを祝った洒落たディナーの場面も、2人で旅行した遠い地の風景もなくて、ただ毎日のレジカウンター越しのやりとりだけが映っていた。それでも男はその思い出たちを、温もり溢れる光に包まれたその思い出たちを、この眼にそのまま写し取ろうかという気持ちで見つめていた。このままでは思い出が全て過去に流されてしまう。今、声をかけなくては、飽きるほど繰り返した彼女との40秒が止まってしまう。果てのないと思っていた回転は、もう終わろうとしている。何か声を。どうせ途切れる平行線分なら、今日くらい交差したっていいではないか。食べ終わればごちそうさまと言う。文章の最後には句点を打つし、どんな試合にも終了の笛は鳴る。それだけのことだ。当然のことだ。ただ、さようならのひと声を言うだけだ。ひと言を。繰り返した日々の最後に。

 力なく割った箸はニつの歪な線分になった。何も言えなかった。口が開かなかった。飯を食う時は簡単に口が開くのに。口は所詮栄養の入口であり、声の出口としての使い方は補助的なものなのだろうか。アウトプットだけを担う専用の器官が欲しいと思ったが、そんなものがあっても同じ結果になっただろう。結局ニ人の間には「温めますか?」と「あ、お願いします」の関係しかなかったのだ。

 男の後悔をかき消すように、目の前から単純な芳香が漂ってきた。男は誘われるように逃れるように、豚焼肉を口に運んだ。瞬間、そのあまりの熱さ悶絶、口を大きく開け、天を仰ぎ、奇怪な姿勢のまま、静止した。男は弁当の異常な温度の理由を思案し、しばしほうけた。火傷に上塗りされた口内炎に舌で触れてみて、その滲む痛さで我に返った。

 再び男が飛び出していってしまった部屋の中、彼女が80秒も加熱した豚焼肉弁当は、まだしばらく冷めそうにもない。

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