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3. 知識の脱構築による世界観の形成

 先に私のポジションを言うと、一度身につけたものを捨てることで世界観が形成できる、です。

 教師も教授も、旅行が趣味な友達も「経験は財産だからできるだけいろんなところに行って経験をすべきだ。若い間の貴重な時間を無駄にしてはいけない。経験に金を費やすべき」みたいなことを言います。まあ、これは私の周りが少し特殊で海外志向が強い人が揃っているためです。経験至上主義、とまでは言いませんがそういう雰囲気です。経験していない奴の言うことは信用できない、自分の目で見てみることで発言に説得力が出るから、という感じです。
 普通に考えてこれは正しいと思います。やはり説得力が違います。選択肢も生まれます。あとスケールに圧倒されるような感動はやはり自分で経験したいものです。

 これに対して私の意見は「できることなら経験はすべきだが、それ自体は誇れないし対して役に立たない。個人の生活の範疇を超えることはない」です。

 例えば留学です。海外に出たことがない人が留学についてあれこれ言うのは間違っています。たとえ正しくても「でもお前見たことないじゃん」で終了です。やはり経験者が「やっぱ日本が一番」と言うべきです。(しかし、政権批判やスポーツ選手批判においては誰もそんなことできないはずなのにネット上では誹謗中傷まで発展します。この差は正直私にはわからないです。同じ経験のはずなのに政治家が「文句ばっか言いやがってお前やってみろよ」と言ったとしたら違和感を覚えます。明らかにどこかにラインがある。しかしわからないので一旦置いておきます。)
 しかし、これは客観的事実を述べるときに限ります。アメリカで実際に怖い経験をしてから「アメリカの治安が悪い」と発言するのはリアルです。日本との違いをいっぱい並べることもできます。でも、それってそんなに偉いのでしょうか。ネットでなんでも調べられる時代に自分の目で見ることで再確認することがそこまで偉いのでしょうか。

 経験も知識です。私の考えでは、やはり忘却または成熟してこそ価値があるのだと思います。リアルを経験したから「日本の治安と美味しい料理に感謝して生きていこう」みたいな単純な話ではありません。「日本と比べて海外はこうだから日本はダメだ」というのも浅いです。生データが個人の役にたつときはあまりありません。もし困ったらWikipediaでも見ればいいじゃないですか。アメリカの物価を直に体感したからと言って偉くなったわけではありません。
 そういうスケールを体感したときに得られる感動やロマンが、何か個人の世界を見るOSや思考の枠組みに組み込まれて一つ次元が上がるような感覚にまで落とし込んでこそ経験に価値が生まれ、センスや審美眼になるのだと思います。教訓を肝に銘じるよりは、ふとした瞬間に思い出す風景に人間としてのロマンを感じる、というのはどうでしょうか。

 少々ルサンチマン的に聞こえたら、それは納得します。何も知らない奴がペラペラ言いやがって、と言うのも納得できます。実際私はこの世すべてを知っているわけではないです。この文章を書くために十分な経験をしているかどうかも判断できません。正しいかどうかもわかりません。でもこれは私なりのこだわりです。私の中ではこうでなければなりません。
 
 人は世界観が全てです。

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