1. そもそも知識は悪い奴で文明・文化にはランクがある
多様性という言葉が広がって結構な年月が経ちました。この言葉は良いようにも使われたり悪いようにも使われたり、でもどちらかといえば都合よく使われる場合が多い気がします。今までは二項対立で話が進んでいた時に多様性という概念を持ち出して、一つの定義に含まれるものを多くしたり、n項対立を作ったりするのはまあ良いとして、屁理屈が効くようになった、というのが私の感想です。
大きすぎる風呂敷を広げたが故に「それはちょっと違うくない?」みたいな理論も受け入れざるを得なくなった現在ですが、「まあ多様性だからな、時代が変わったんだよな」と納得するのは攻めたことが言えないメディアに出ている人だけでよくて、個人としては多少排他的になる方がいいと思います。倫理的潔癖は反知性主義に陥りやすいからです。
正しいか間違っているかは正直どうでもいい。そりゃ正しさで勝負するならあらゆる多様性を認めた方がいいに決まっています。当たり前の当たり障りのないことを言うことが俗な正しさだからです。個人的な正しさは違う面からみれば間違っているので。
今の中高生は間違えることをとても嫌う。そりゃ当たり前なんですけど、一回間違えてから軌道修正してコツを掴むみたいなプロセスがない。間違えていても「私はこう考えた、私はここにこだわった」みたいなものに私はとても良さを感じます。それがいずれ世界観として昇華する日が必ずきます。間違えていてもこうじゃなくっちゃ、みたいなものが世界を見るための種になると私は信じています。
私は正しいかどうかの議論はしません。したくありません。そんなことしても意味がない。というよりは、客観的事実は一つしかないしそこには絶対手が届かないというカント的世界観が私のデフォルトだから、自分の審美眼を磨く以外にはよりよく生きることができないと思っています。だから、一生懸命勉強しても、それを正しく使う必要はない。全部無駄だった、と唾を吐き捨てるのも素敵です。
知識はそもそも正しい存在じゃない。知識は人を悪くする。私だけしか知らないことがあれば「ふん、みんなバカだね」みたいに驕るだろうしそれは当然のことです。知識ある人は他人より勉強したのだから。
知識はちょっと人の気を大きくさせる。そこをわきまえる必要はない。知っている人だけの特権です。
そうやって文明は進化してきました。「知ること」の楽しさ、純粋好奇心もあるでしょうが、それよりも競争や戦争、よりよく生きるための術として文明は発達してきた。より良い文明・文化を求めた。「私たちの国はこんなものを持っているんだぞ、すごいだろ」と思いながら。その多様性を認めることは当たり前ですが、優劣があっても当たり前でしょう。もし優劣もなく、全て同じ価値としての文明文化なのだから等しく扱う、というのは先人に申し訳が立たない。
ここで私が言いたいのは、なんでも手放しに認めることはできないということです。考えてみれば当たり前だと思います。「なんでこんなものを認めなければいけないんだ」という感情は誰にでもあるでしょう。憎むべきは憎んで嫌いなものは嫌いです。私の方が上位な存在にある時もある、表には出さないが見下す時だってあるでしょう。「個人の好みだから」では済まされないことだって多いはず。「価値観は人それぞれ」を私は擁護しない。基底となる共通の何か、あるいは数式がある。そこのレベルを合わせる必要があります。
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