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言い訳を沢山したい『会話についての思索』要約2

 前回に引き続いて11月20日に出品予定の本について書いていきます。前回がやや硬質な感じになってしまったことを反省し、今回からは徒然と書いていきます。

 2つ目のチャプターでは言い訳を取り上げているのですが、「日常会話では言い訳するくらいがちょうど良いよね」という事をあれこれ考えました。
 正直自分は言い訳をするのが苦手な人間で、何か間違いをすると正直に落ち込んでしまい口数が減ります。逆に「もうダメだ」みたいに絶望することもありませんが、見た目のアクションがめっきり減るので周りの人間からすると何を考えているか分からない、コワいということになります。
 別に悪いことをしているわけじゃないから、これをすぐ直そうと考えるのもおかしいでしょうが、とはいえ何か「もやもや」が残るのも確か。そこで、ここでは言い訳を大いに称揚してやることにしました。

 言い訳が良い理由は単純に「生き生きとしている」から。それだけですが、まさに私が持っていないことです。会話のなかでちょっとしたミスがあっても、すぐ謝っては面白くない。言い訳して、できるだけ逃げてみるのも良いのではないか。そう思ってみたわけです。
 文章では、言い訳と対照的なものとして、真実というか、当たり前の事実を取り上げています。当たり前の事実は簡潔で、あっという間に言い終えてしまえるものです。ミスをすれば謝れば良いだけ。一瞬です。しかし、それでは面白くない。だから、普通私達は言い訳をして、その言い訳が崩れそうになるとさらに言い訳を塗布して、塗布の上に塗布を重ねて生きているのではないか、とそんなことを書きました(厳密にはニュアンスが違うかも)。
 このように言い訳を基本にしますと、ただちょっとしたミスを一つするだけで無限に話題が生まれてきて生き生きした感じになるのでしょう。

 この事は言ってしまえば当たり前のことなのですが、私としてはここで一歩、仮説というか提言というか、何か命題へと結びつけたくなります。それで、言い訳をいわゆる「ハレとケ」のケとしますと、ハレの部分に真実があると言えるのではないかと想定しました。そのうえで、私達の会話が「遠いところにあって誠実であって、親しいところにあって天の邪鬼」という性質があるのではないか、と考えてみたのです。
 この命題が、この本の言ってみれば骨子みたいなものになりました。
(p.s. この部分、後で読み返しますと「真実などどうでも良い!」という最近のフェイクニュースや反知性主義っぽくなっていて危機感がありましたので、追記します:当たり前の事実や誠実さについても、常識的な普通の会話のなかではきちんと捉えられているでしょう。ただ、少し「距離」を取るという形で、です。この距離が無視になれば、当然問題となります。しかし、距離を取る意識が逆に対象との関係を強めることがあり(entfernungのような)、それによって事実との関係を維持することがある、と思います。)

 ところで、いま少しまた当該のチャプターを見てみた所、もっと色々書いていたのですがとてもまとめられそうにありません。実は自由を4つに分析したり、という哲学的には無謀なことをやっていたりします。実際、これ以降のチャプターは全てこの分類を前提にしますので、以下に羅列することにします。

1.選択する自由
2.円滑で安全な自由
3.思考の自由
4.自由を偽る自由

 さて、この文体で扱うのはちょっと厳しいので、また次回以降の紹介のときに必要な範囲で書いてみたいと思います。

 次のチャプターは「伝統的?」なことについて書いています。

ところで写真はCCにて「遺跡」を検索・ヒットしたものです。イギリスはヨークシャー州のリーヴォール修道院跡という場所だそうです。
front image: photo by rodtuk
link, trimmed for upload(CC BY-NC-SA 2.0)


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