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AIと人間の境目(会話周りで)『会話についての思索』要約5

 11月20日に文学フリマ東京35が迫ってきた。ここに新しく出品する「会話についての思索」について各チャプターの要約をしてきたところ、今回は最後から二つ目の内容になる。

 今回扱うチャプターは会話の「ロボットっぽい」側面を取り上げるのだが、少しわかり難いかとも思う。最近(?)の話題に引き寄せるなら「AIと人間の境目」についての話がいいかと思う。
 もともと、「ロボットと人間の境目」というテーマについては、サイバーパンク系のSF作品が取り上げてきている。有名なブレードランナーはもちろん、日本の攻殻機動隊やアキラなどのアニメ映画でも面白い提起が試みられている。作品中なんらかの形でロボットと人間の融合が起こるわけだが、それは外見上の見分けがつかないという表層的なものから、義体によって身体をロボット化していった際のロボットとの境目、また心理的なロボット化など、様々な層があった。
 対して、今回取り上げる「AI」、つまり人工知能は名前に知能と冠されていることもあって、どちらかというと人間以外のもの(ロボットやコンピュータ)が人間の側に寄ってくるものとして考えられる。「2001年宇宙の旅」のHAL9000などが代表的だが、AIの恐怖は「非人間性」というよりも「あまりにも人間的」な「何か」だったのだと言えるだろう。それ故、AIと人間の境目について問題になることはあまり無い。
 その他、仕事がなくなるなど直接的な問題があるにも関わらず、AIと人間の境目について問題にする必要は何か?それは、AIが本質的には統計的な計算をする機構なのであって、人がそのように微分されたものとして表されて良いかどうか、という点にある。たとえば「最近、面白い作品があってね」「なになに」といったような月並みな会話をもって、人間を代表させて良いのだろうか?確かに、とても良く為される会話だろうけど、それが代表的と言えるだろうか。もちろん、そんなわけがない。ときに代表性というのは、新奇性があって目を引き、そして「まるで新しい状況を予言していたかのように」しっくりくるものである。だから、AIなどがいくら事例の多さを当てにしても、本当に代表的な表現を探り当てることは難しいだろう。
 しかしながら、AIが当てにするような月並みな表現と、私達が実際に日々行っていることの間にはそんなに距離がない。会話を普通にしていると、普通に月並みな表現をすることがあるし、それに気持ち悪さを覚えて、どうにかしたくなってしまったりすら、するのである。
 私はここで、人間が「飽きっぽくて」「新しさに飢えている」というありきたりな表現に陥らないようにしたい。それというのも、こうした言説自体が非常に一般的であって、全然人間とAIの違いを示さないからだ。むしろ、私はこう考える:人は普段、本当に正直なところを直接言うようなことは避けて、あえて会話が生き生きとするような言い方で切り抜けている。それはちょっとロボットっぽい、一般的すぎるものなので、繋げるべきでないものも繋げてしまったりする。そのため、矛盾に耐えきれなくて気持ち悪くなってしまうことがある。
 ここから2つのことが言える。①生き生きした会話もAIはきっとうまくできる、②にも関わらず、AIと人間は全然違う。
 ①について、人は会話のなかで、いかにして生き生きと会話できるかを心のなかで試みている。会話の仕方はそれほど多くの選択肢がない。だから、AIの最大公約数的な計算によってかなりの程度、模倣できてしまうだろう。(※LINEのbotサービス「エアフレンド」など、既に沢山実現している。今後も精度が高まるだろう)
 ②について、人は会話で建前を沢山使っている。会話の楽しさですら、建前かもしれない。そうした建前も含まれた沢山の事例には気分の悪くなるものもある。しかし、人はそういうものとして表現しない。だから、AIの統計学的な計算がそこに辿り着くことは(自力では)できない。もし、AIが個々の事例から本音を探り出し、集積できるなら、それはすごいことであろうが、現時点でそうした話は聞かない。

 ところで、生き生きとした会話がつい踏み越えてしまう「気持ちの悪さ」とはなんだろうか。その点を本のなかでは分析したのだが、既にかなり長くなってしまったから、今回はここまでにしよう。
 次回は最終回だ。「脱知性的」というテーマで書いているチャプターで、ここで書いた気持ちの悪さの対処の仕方についても扱っている。

front image by Alan Parkinson "Ruin"
link trimmed for upload (CC BY-NC 2.0)

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