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反知性と脱知性と『会話についての思索』要約6

 いよいよ来週、11月20日の12時から東京流通センターにて、文学フリマが開催される。そこに自分も出店するのだが、このために用意した新しい本の各チャプターの要約(?)を最近Noteで行ってきた。今回はその最終回になる。

 タイトルは「脱知性的」としている。よく似ているが反知性主義とは違ったものとして造語した。端的に言えば、会話のなかで「頭の良さそうなこと」や「知識が特にありそうなこと」は忌避されがち、ということを意味している。
 反知性主義という言葉自体は、歴史的にも様々な文脈を抱えている。元はピューリタニズムに対する批判を意味するものだったらしいが、現代においては特にドナルド・トランプに代表される大衆迎合的な政治的態度を意味することが多い気がする。知性や知識人が権威を振るうことを好まず、大衆的(ないし一般的?)な考え方や判断に重きを置くような態度だ。
 反知性主義に対する批判は当然ながら非常に多い。だから、勢いづいてしまって〈知性に反するものは絶対ダメだ〉と言ってしまいがちなのだが、私としては、それはそれでおかしいような気がする。なぜなら、会話のなかにはもともと、「脱知性的」な傾向があるからだ。

 この文章を書いている筆者は、一応大学院まで行っていることもあって、なんだか「エリート」のような扱いを感じることがある。実際は大したこと無いのだが、どこか疎外感を覚えたりする。普通に話していて、たまたまこちらが知っていることが出てきたりすると、何か冷めた態度で別の話題に移っていくようなのだ。もちろん、こんなことは社会のなかではありきたりであるけれど、あまりいい気分のものではない。会話においては、知識のある無しで何か上下関係が感じられること(気がすることさえ)は避けたいものである。会話は一方的でない方が楽しいはずだ。

 そこで、これまた普通ではあるが、知性的なことをあえて「遠いもの」として扱う態度は会話のなかで一般的だ。知っていることもあえて知らないフリをしたり、細かく分析して考えられることも、あえてテキトーにしてみたりする。こういう態度を「脱知性的」と称することにしたい。
 前回、「AIと人間の境目(会話周りで)」というテーマで要約をした際に、会話が生き生きとするように、気持ちの悪い態度をあえて選択することがあると、説明した。脱知性的、というのは「知性的なことは直接には言わない」という意味で、やっぱり気持ちの悪い態度だ。しかし、脱知性的な態度では、あえて難しい言葉で自分の正直な考えを維持してもいる、という点がとても重要だ。
 どういうことかというと、話のなかでは「分からない」と言っていることでも、頭のなかでは、あるいは何か「変わった言葉」のなかでは、やっぱり「知っている」という態度を取ることが脱知性的だからだ。何らかの知識が「ない!、絶対ない!」と意識することは、かえってその知識が「絶対にある」ことを証明してしまう。だから、私達は心のなかで異なる人格?ないし、言葉を持っていて、彼に本音を託したりするのだ。(この記事が、私にとって日常生活とは離れた「遠い言葉」であるように)
 このようなやり方をすることによって、私達は会話のなかで遭遇する「ただ会話のために会話する気持ちの悪さ」をどうにか薄めることができるだろう。前回の問題はこうして解かれたことにしたい。知識のあるなしだけでなくて、気持ちの悪さは別の表現を求めるということだ。

 もう十分に長くなってしまったけれど、これで最後なのでもう少し付け足したい。脱知性的な態度が利用する「遠い言葉」は、普通の会話と一緒に利用される。それは知識のある・なしを行き来するのと一緒なのだ。
 唐突だが、本のなかでは宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の冒頭のシーンを引用している。先生が生徒たちに質問する:「そういうふうに川だといわれたり、乳の流れたあとだといわれたりしていた、このぼんやりと白いもの」は一体なんだろうか。ジョバンニは指をさされて立つが、正解を知っていても口に出すことができない。カンパネルラの家で本を見たのに、それを告げることができない。
 これは、ジョバンニがクラスのなかで居場所を作るのに苦労していることの端的な描写だが、もう少し詳しくいうと、脱知性的な態度で「遠い言葉」を利用し、自由に「知っている・知らない」の間を行き来する(翻訳する)ことができない、ということなのだと私は思う。ジョバンニが普段、学校で口にする言葉と、彼が心を開いてカンパネルラと会話する時の言葉は、互いに翻訳できなくなっていたのだ。
 このように、脱知性的な態度が利用する遠い言葉と、普段使いの会話の言葉は、翻訳できたほうが便利ではある。

 ところが、ここで翻訳の不可能性という問題も出てくる。これが言ってみれば、この本のオチのようなものだ。世の中には色々な言葉があるが、それぞれに固有の詩的な表現というものがある。それは言葉の使われ方の文化的背景や、音の響き、それから言葉同士の響きなどが絡まり合うので、決して完全には翻訳できない。翻訳は常に裏切りだと言われる。だから、脱知性的な態度で遠い言葉を使ったりしていると、ときどき私達は、ジョバンニと同じように「あれ?」と立ち止まってしまうのである。
 これは、とても奇妙なことだ。「知っている・知らない」の間を行き来することができないので、言葉が分離してしまって、私達はその間に彷徨うことになる。そして、逆説的にだが、こういうことが分かる:私達自身は何事かを「知っている」「知らない」のどちらにも属するわけではない、と。

 こうした気づきを得ることはとても重要だ。私達は、単に何かを「知っている(知っていない)存在」なのではない。そうではなくて、それを想起すること、ないし、思い・話し合うことには知識以上の何かがあることが示唆される。

 最後の結論はちょっと抽象的になってしまったが、本の方ではもっとすっきりとした感じになっている。もう少し関係する事象を紹介したりしているせいだ。
 Noteでの試みはだいたいこのようなものだ。もし良かったら「いいね」したり、文学フリマのブース(S-16)に遊びに来たりしてもらえると、とても嬉しい。 
 

front image by Stefano Losardo
link trimmed for upload (CC BY-NC 2.0)


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