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、、知らんけど。軽い(重い)気持ち『会話についての思索』要約4

11月20日に開催される文学フリマ東京35にて頒布予定の本の要約を徒然と行っている。今回で4回目。

 最近流行りだしたのでもないが、最近「知らんけど」という言い方について少し話題になっている。NHKが特集を組むし、少し検索すると若者言葉のランキング(なんだか怪しいものだが)にも載っているらしい。筆者の感覚でいうと、大学生の頃に関西出身で普段から関西弁の同学年が時々使っていたのを思い出すくらいで、そんなに一般使いされていた気はしない。
 最近の流行はともかく、「知らんけど」って言いたくなる気持ちには軽い気分と重い気分の両方があるように思う。何か人に主張できるような知識や知恵があるわけではない、という意味では軽い。けれども、共有したくなるような「前知識」や噂話、虚言ならある、という意味ではちょっと重い。
 話す側からすると、後で「知らんけど」って言うことにして色々と不確かなことを話すことができるので楽だ。聞く側からすると、始めはいろいろ不確かなことを聞かされて頭のなかで「?」が出たり、反論を思いついたりするが、「知らんけど」と後付されてしまうので、「なんだよ」と言う程度のことしか返せなくなってしまう。
 実は聞く側でも、少し重さと軽さがある。「知らんけど」の前は、何か言い返さないといけない、と思っているが、「知らんけど」のあとは放置して良いくらいに発言が軽くなる。

 軽い気持ちと重い気持ちの混じり合いは会話のなかではよくある。「知らんけど」はその特殊な例だ。本のなかではもう少し普遍的なところで「決断をする会話」を取り上げた。すなわち、ただ軽いだけの気分では決断は長続きしない一方で、重い気分だけでは決断をするまでに至らない。だから、軽い気持ちと重い気持ちの両方があることによって意味のある決断ができるということだ。
 「知らんけど」という言い方があることによって、なんだか分からない微妙なネタを話したり聞いたりする決断を共有する。それは不確かなだけで、確かめれば正しい情報かもしれない。あるいはギャグなのだけど、あまり直球でもないので共有するのに躊躇うレベルのネタなのかもしれない。

 ところでここまで頑張って「知らんけど」論をしてみたが、本のなかでは全く扱っていない。実はもうちょっとシリアスなところで〈会話が決断できるかどうか〉について考えている。これは重要なことだ。なぜなら、会話で決断できないということは人が決断を共有できないということを意味してしまうからだ。人が会話によって決断を共有できないなら、どんな集合的な意思決定も一人一人の合理的な判断の寄せ集めに過ぎない、と考えることができてしまう。もちろん、筆者はそうではなく、決断ができるような会話がありうると考えている。
 軽い気持ちと重い気持ちは、そうした決断のための重要な条件だ。そして、それを引き起こすために、私達はちょっとしたルーチン、ないしは儀式のような何かを会話のなかに入れ込む。たとえば、少し沈黙して互いの眼差しを観察し合ったり、他愛ない雑談に移ったりする。そういった定型的な付随を通じて、私達は〈会話の中身〉と〈この世界〉の関係性についての信念をなんとか得ようとするのだ。それはまるで祈りのようでもあるが、宗教的な祈りの域には達していない。あくまでも会話のなかでのことだ。

 「知らんけど、、」はこういう身振りをあえて言葉にして行うようなものだ。会話の中にあって、会話の外側(この世界)との関係性を暗示しようとする。それは、不確かなことしか共有できない自分たちの姿を客観化して〈こんなぐらい〉な自分たちと、自分たち以外の色々な存在との関係性に気づく段階を作り出す。とはいえ、それで何が決断されたか、というと、基本的には〈なんだか分からない微妙なネタを話したり聞いたりすること〉に尽きるのではあるが。

 会話のなかで、その外側にあるものはどうでも良いものだ。だから、ある意味では軽い気持ちが残る。しかし、会話の外側にある何かこそが、会話をしている私達にとって重要かもしれない。だから重い気持ちもある。これらの両方があることで、会話は決断をする。

 今回は多少〈話題の言い換え〉による要約が出来たかと思う。次回は〈ロボットっぽい〉というテーマなのだけど、なかなか書きにくそう。

front image by Marko Ćipović
link trimmed for upload (CC BY-NC-SA 2.0)

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