私が私を、私として

私は自分が『あまり好きではありません』。

なぜならば、性格も見た目も理想とは程遠いからです。
人と話すのが苦手で、内にこもってばかりだからです。

理由を上げれば切りがありませんが、ここまででしたら、数多くの共感をよせられるかもしれません。

しかし、私はあまりに卑屈で、ネガティブの上、内弁慶です。自分を皮肉る言葉を沢山持っています。最大の欠点は、何かにつけて否定するところでしょうか。

幼い頃はもう少しマシだったように思います。高校に進学した頃から、少しずつズレが生じていきました。そしてそれは、就職を期に、明確に私の前へ現れました。
二年で会社を辞め、挫折と呼ぶには拙い感情をぶら下げて、自身を責めぬいた挙げ句、大嫌いをつきつけたのでした。

やることなすこと、全てが嫌でした。

そこから四年の月日が流れ、今に至ります。
それを考えたなら、『あまり好きではない』という今の自己評価は、かなりの進歩なのかもしれません。


自己評価が変化し始めたのには、あるきっかけがありました。衝撃的な出会いなどではなく、思っていた何倍もあっさりと、その時はやってきました。

自己嫌悪の渦に飲まれていた頃、『暗いトンネルはいつまでも続かない』などという言葉をよく耳にしました。
果たして本当にそうなのかと耳を疑っていましたが、いつか急に光が差し、ここから救い出されるのだと幼くも思っていました。

私の常闇のトンネルは、絶賛工事中で道路が沼のようにどろどろとし、進もうとすればするほど、自身が汚く醜くなっていく感覚に苛まれました。

ある日、出会った彼らはその泥で楽しそうに遊んでいたのです。
無理して前に進もうなどとせず、自身についた泥も交えて笑っていました。出会いとは言っても、実際に会ったわけでも、ましてや話したわけでもありません。

画面越しに彼らを一方的に見つめたのです。

彼らは動画の中で、ゲームをして遊んでいました。それはそれは、とても楽しそうに遊んでいます。

私は久しぶりに彼らと笑いました。
自然と笑っていたのです。

そして、彼らの話を聞いている内に、彼らに興味を持つようになりました。泥の中でもがくことを一旦止め、ぷかりと浮いて、彼らを見ることにしました。

彼らは自らの人生経験や失敗までも、余すことなく面白おかしく話ながら、常に楽しそうにしています。

その内の一方が言いました。
「自分を嫌だと思ったことがなかった」
その内の一方が言いました。
「人生の失敗も面白く話せれば、笑ってもらえるのだと気づいた」

その言葉に感銘を受けながらも、この人たち何気なく、カッコいいなあと思いました。
泥まみれで、時々、後退りもしているのに。

私もそういう風に、考えられたらなあ。

そう思い始めてから、こいつ嫌いだと見向きもしなかった自分に、少しずつ向き合うようになれた気がします。

私が私を私として、好きになれたらいい。
すごく好きでなかったとしても、少しずつ好きになれたらいい。

些細な感情も、興味も、私が汲み取れなければ、なかったことになってしまうでしょう。
私しか私の全てを知ることができる人は、いないのだから。
自分を大切にする重要性を知りました。

好きか、嫌いか。
二つ、三つの文字で、全てが決まる訳ではありません。

では、好きに近づくためには、どうしたらいいのか。そんなことで悩む日が来るとは思いもしませんでした。

誰かを見る前に、私はしっかりと私を見るべきだと、彼らに教えていただきました。

しかし、それに気付くきっかけは紛れもなく、彼らを見たことだったと思うと、人生の難しさを考えずにはいられません。

彼らが好きだと、私が好きだと、胸を張り言えるようになったなら、頑張ったなとまた少し私を好きになれるのだと思います。

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