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note #4

 女優であり、タレントでもある芦田愛菜さん。ご存知の方のほうが多いんじゃないかな、と個人的には思っている。
 彼女が、信じるということについて語っている動画を何度か見たことがある。彼女が思う〈信じる〉ということは、その人のことを信じている自分自身を信じること。私もその考え方には共感を覚えた。
 この話を踏まえて、友達を大切にすることはどうして必要なのかを綴ってみたいと思った。

 私には中学・高校・大学時代からの同級生がいる。学生だった当時の私たちは、未完成の心のまま互いにぶつかり合い、磨き合っていた。思春期であることもそうだし、私は複雑性PTSDの影響もあって、それはそれは拗れた友情を結んでいた。
 それぞれが社会へ羽ばたいてゆくと、日常のベースが学校から地方へ、はたまた世界へと移りゆく。それが生きるという自然の流れだと受け止めて、みんなに会う時間は急激に減っていった。SNSの普及によって、近況くらいなら簡単に知ることはできるけれど、今までなら気軽にこぼせていた愚痴は自分の中に蓄積されていった。近くに居ても拗れるくらいだから、離れていたら尚更、私の考える友情は脆く崩れ去る。
「私のことを真剣に考えてくれる人は、やっぱ居ないよな。」
 心が閉鎖的になり、誰かの目論見通り、私は孤独を隠そうと何着もの見栄を着込んだ。そんな自分らしくない自分が大嫌いだった。

 それから14年余りの歳月を経て、娘の誕生を機に自分の病と向き合うことで、私は閉鎖的だった心をこじ開けることに成功した。
 こじ開けてみると、どうだろう? 案外この世界も捨てたもんじゃないと思っている私がいた。もちろん、無理矢理こじ開けたわけでも、自論に基づいて行なったわけでもない。そこに行き着くまでにたくさんの苦い経験を味わい、信頼できる臨床心理士のマオ先生と共に、心の中の私と1人ずつしっかりと向き合ってきた。もしあなたが心を閉ざしているとしても、無理矢理こじ開けようとはしないで欲しいということを伝えておきたい。
 自我状態療法とアクティブイマジネーションによって心を強化した私は、“すてきな友達”の有り難みをひしひしと感じとれるようになった。今までなら、みんなが向けてくれる言葉や優しさも
「どうせ社交辞令程度なんだろな。」
と、受け取ることを拒否し続けてきた。いつでも傍に居てくれて、困った時には力になってくれる。連絡を取ればいつでも会えて、私の気持ちを100%わかってくれる。それが〈友達〉だと思っていた。けれど私の中で、そもそもの〈友達〉の定義が書き換えられたのだ。

 〈友達〉とは

  どんなに遠く離れていても、その人は私のことを思ってくれていると信じられる。そして何処に居ても、その人の幸せと健康を祈らずにはいられない。自分が何かに躓いた時には「あの人ならきっとこんな風に励ましてくれる。」と、自信を持ってそう思える関係。きっとその人の存在が「あの人も今同じ空の下がんばってる。だから私も負けないで、今の私にできることをやっていこう。」そんな勇気を与えてくれる。それこそが“すてきな友達”と言えるだろう。


 私がどんなに心を壊しても、
「じあんはじあんだよ。」
 そう言って、私を信じていてくれた私の大事な大事な友達。今はその言葉に込められた想いを100%信じてる。
「こんな私の友達でいてくれてありがとう。これからもよろしくね。」
 みんなの想いは、私の真っ暗な人生を唯一照らしてくれる優しい燈だった。だからね、今度は私にもあなたの悲しみや苦しみに燈を灯させてね。そのくらいしかできないけど、あなたは私の“すてきな友達”だから。この命が続く限り照らしていたいんだ。何処に居ても、何をしてても、マルチバースの果てまでも。

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