『天啓予報』第14章 ホストの愉快な一日

 第十四章 ホストの愉快な一日
 
 早朝。チェロの弓の上に朝露が結び、ケースには一筋の水跡がついている。
 こんなに湿度が高い日は、楽器はちゃんと保管しておかなければならないのだが、今の槐詩かいしにはその気力がなかった。
 いつもの習慣で二時間のチェロの練習とついでに瞑想を済ませると、槐詩は庭に面した階段に座ってぼんやりしていた。
 当然、お尻が冷たくなってきた。
「明日は座布団を持ってこよう」
 座っていられなくなり、槐詩は立ち上がった。ズボンをはたき、何もない庭園を眺めながら、目的もなくぶらぶらした。
 縫い合わせた腕の傷口は、動かす度にまだ微かに痛んだ。
 その痛みは昨夜の危機を槐詩に思い出させた。
 いや、彼がいまどんな状況に置かれているかを、まざまざと自覚させた……いまの自分は、自分で身を守ることすらできないのだ。
 こんな苦しい人生を続けていくことにどんな意味があるのかと常々考えていたが、死ぬよりはましだ。
 それに、槐詩の人生はまだ真の意味で始まってもいなかった。
 生きていたい。
 槐詩はしばらくの間、様々なことをぼんやりと考えていた。
「また庭でぼんやりてしているの?」
 ふいに、垣根にとまった烏鴉うやの声が聞こえた。
「たまには別の場所にしたら?」
「ここが好きなんだよ。悪いか?」
「もっと頑張って、槐詩。昇華はもうすぐ完成するのよ」
 鉄が鋼にならないのを恨んで溜息をつき、烏鴉は羽根をパタパタさせた。
「あとほんの少しよ」
 引き換え、槐詩は意気消沈していた。
昇華しょうかが完成したからなんだっていうだ?もっと沢山の胡椒が出せるようになるのか?沢山出せるようになったところで昨夜の奴にはかないっこない」
「何度も言ってるけど、劫灰こうかいはあなたの霊魂属性の副産物に過ぎないの。昇華が完成すれば、霊魂の力は急激に変化するわ。
 昨夜の猿のこと、あいつ自身の力だと思っているの?」
「え?」
ぬえ瀛洲えいしゅう系譜の聖痕で、第三段階・エーテル」
 烏鴉は深い意味を込めた眼差しで槐詩を見た。
「昇華は始まったばかりよ、槐詩。潜在能力の大きい昇華者は十二歳ごろに覚醒する。あなたは遅れをとっているの。怠けないで。
 もしあなたが平穏な生活に戻りたいと考えているなら、先にはっきりと言っておくわ――運命の書の所有者は世の中の最高峰の道を歩むことができる。権力、お金、美女、何だって手に入る。ただ平穏な人生以外は」
 槐詩はしばらく黙っていたが、運命の書を手に取った。
「……いまからでもこいつを手放すことはできるか?」
 烏鴉は少し考え、急に興奮しだした。
「私はお勧めしないけど、歴史上そういうケースは一度もないわね。何が起こるかとっても興味があるわ。試してみない?」
 槐詩は烏鴉を睨みつけた。
「やっぱり、挑戦しない方がいいわね」
 烏鴉は同情して羽根を伸ばし、槐詩の肩をポンポンと叩いた。
「少なくとも今のあなたは、ある意味平穏な生活を送れているし」
 そうだ、困窮のあまりホストクラブに沈められそうになり、道端では変死に立ち合い、いまは禿げのホストと同居し、捜査の囮にされているとしても……
 ここまで考えると、槐詩の脳裏にふと、たった二度会っただけの少女が浮かんだ。自分より二、三歳年上らしい車椅子の少女。
 艾晴がいせい
 どこかで会ったことがあるような気がするが、自分の短く空虚な半生で、そのような記憶はまったく見当たらなかった。
 どんな情況だったとしても、車椅子のあんなに奇麗な少女と会ったなら、それがすっぽりと頭から抜け落ちるなんてことがあるだろうか?
 槐詩は頭を掻き搔き思い出そうとしたが、どうやっても思い出せなかった。
 門の方からクラクションが聞こえてきて、槐詩は出勤時間であることに気づいた。槐詩は仕方なくチェロケースを担いで外に向かった。
 半人前ホストの槐詩にとって、また試練の一日が始まろうとしていた……
 そして当然のごとく、トラブルが起きた。
  ※
  ※
「ここで仕事をしているのは『ウリ』のためじゃないの?なに格好つけてるのよ!」
 |柳東黎《りゅうとうれいの目の前で、槐詩の母親にもなろうという歳の痩せた女性が、槐詩を指さして罵ると、いきなり酒を浴びせかけた。
「私はこの店で何十回もシャンパンタワーを建ててきたのに、あんたはちょっと座って酒の一杯を飲むこともできないっていうの?自分を聖人かなんかだと思ってるの?社長を呼んでちょうだい。でなきゃ納得できないわ……」
 混乱の中、槐詩は何を言っていいかわからず、柳東黎の後ろで乾いた笑いを顔に貼り付けていたが、とうとうスタッフに店から連れ出されてしまった。
 柳東黎は場を収めると、槐詩を探し、あちこち探してやっとクラブの裏口で屋台の|煎餅《ジエンビン〔クレープに似た食べ物〕が焼けるのを待っている槐詩を見つけた。
 八百元の日当が入って気が大きくなったのか、煎餅に二本のソーセージをトッピングしていた。槐詩のとてもうれしそうな様子を見て、もともと機嫌の悪かった柳東黎は思わず小言を言った。
「出勤二日目で人に物を投げられること六回、どうしたらそんなことができるんだ?」
 槐詩は真面目に考えると、しばらくして言った。
「俺がハンサムだから?」
「おい槐詩……」
 柳東黎は溜息をついた。
「顔に酒をかけられて、何度かひっぱたかれて、どうして何事もなかったような態度が取れるんだ?」
「じゃあどんな態度を取ればいいんだ?」
 槐詩は冷静に柳東黎を見た。
「戻ってあの女の尻を蹴とばし、『三十年は河の上、三十年は川の底、少年貧しきを欺くなかれ〔世の中は常に移り変わる。貧しい人間を馬鹿にしてはいけない〕』とでも言ってやればよかったのか?それにこんなことは想定内だ。腹を立てるようなものか?こんなことでいちいち怒ってたら、四、五年のうちに怒りすぎて死んじまうよ」
「……」
 柳東黎は何も言わなかった。
 こいつ、変な方面に思いもかけない長所がある。
 半分嫌がらせのつもりで槐詩を店に出勤させてからというもの、気を揉むことは沢山あったが、こいつが腹を立てるのを見たことがない。酒をかけられても笑っていて相手にせず、手を出されても罵られてもやり返さなかった。
 私生活では文句ばかり言っているが、一方で何ともいえない強い忍耐力を持っている。
 楽天家もここまで来ると、馬鹿なのか何なのかわからない。
 槐詩がにこにこして煎餅が焼けるのを待っているのを見て、なぜかは知らないが、なんとなく柳東黎はいらいらした。自分が良家の子女を悪の道に引きずり込んでいるような、真面目な人間を騙しているような感じがして、良心が大いにとがめた。
「煎餅は待たなくていい。行こうぜ」
 柳東黎は屋台の親父に代金を渡すと、槐詩を更衣室に引っ張っていった。
「午後は休んでいい。兄さんが飯を奢ってやる」
「ほんとか?ついに良心に目覚めたか?」
 槐詩は喜んだ。
「それでいつ電気代を払ってくれるんだ?」
 ちょうど階段を上っていた柳東黎は、危うく踏み外しそうになり、振り向いて大きく見開いた眼で槐詩を見た。
「俺がタダでボディガードをしてやっているのに、なんで電気代まで払わなきゃいけないんだ?」
「湯沸し器を使ったじゃないか。水で洗うんじゃダメなのか?」
「おい、お前には良心がないのか?昨夜俺はお前を助けて怪我したんだぞ。水でシャワーを浴びたら肌に悪いだろう!」
「……そうだな。髪の毛にもよくない」
 槐詩は付け加えた。
 階段の上の柳東黎はよろめき、危うく転げ落ちそうになった。
 着替えの時、槐詩はサングラスと大きなマスクをつけ、顔を隠した。まるで何か企んでいる不穏分子のようである。
 ホストクラブで働くことは仕方ないとしても、クラスメイトに写真を撮られるとなるとそれはまた別の話であった。
 前回はごまかすのに苦労したが、今回は見破られることはないだろう。
だが残念なことに……物事は往々にして個人の主観や希望を裏切り、万年不  運の槐詩は門を出た途端、後ろから呼び止められた。
「槐詩くん?槐詩くんでしょ?!」

訳者コメント:
槐詩のあまりの不運と貧乏と苦労ゆえにある種達観(?)している性格が好きです。中国のシャワーはガスではなくて電気で沸かすのが一般的なのでしょうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?