『天啓予報』第5章 烏鴉と聖痕

第五章 烏鴉うや聖痕せいこん

「ああ……どうやって暮して行こう……」
 裏庭に続く階段に座っている槐詩かいし は、衣服は乱れ、顔色は青白い。
 彼はこの二日に起こったことを考え、たまらず天を仰いで涙を流した。
困窮も極まり、ホストの面接に行ったという汚名を背負い、わけもわからず変死に遭遇し、銃を持った兵士たちにおかしな組織に連れていかれ、心まで踏みにじられ……
 心も体も、精神面でも金銭面でも、人生の苦痛と辛酸を舐め、すでに心が持ちこたえられなくなっていた。
だが首をくくる縄を買う金もなく、ガスは半年前に止められていた。
死ぬこともできず、生きることもできず、まさに進退窮まっていた。
「死んだらいっそせいせいするだろう!」
 槐詩はノートを傍らに放り出した。怒り狂い涙を流した。怒りも尽き涙も枯れ果てた時、彼はノートを拾い、表紙の汚れを手で払った。そして溜息をつき、荒れた庭を眺めてぼんやりとした。
 すべては過ぎ去るのだ、槐詩。すべては過ぎ去る……この苦しい時期もいつかは忘れてしまうだろう。
 そうなってほしいと槐詩は心の中で祈り、それからまた生活費をどう捻出するか頭を悩ませ始めた。
「でも、時間が経てば、あいつはあなたに目を付けるわ……」
近くで声が聞こえた気がした。聞き覚えはないが女性の声のようで、掠れていて艶っぽく、そしてどこかバカにした響きがあった。
その声は言った。
「あなた、もうすぐ死ぬわ」
「誰だ!」
 槐詩は怒って振り向き、そして唖然とした。
周囲に人の姿はなかった。
ここは槐詩の家の裏庭で、誰かが訪れることも、まして話しかけてくることもない。
 塀の上に一羽のカラスがとまり、物憂げに羽根を梳いているのを槐詩は見た。
「なにボーっとしてるの。そう、私よ」
 槐詩が驚きに固まっていると、カラスは淡々と言った。
「カラスがあなたに話しかけてるの。これは悪夢じゃないわ」
言うと、げっぷをした。
「お前、喋れるのか?」
 槐詩は愕然とし、すぐに警戒した。
「そんなバカな。化け物か?!」
カラスは笑い出し、媚びるような拗ねるような口調で言った。
「あら、私を毎日肌身離さず持ち歩き、一日に何度も見つめてくれてるのに……どうして化け物なんて言うの?」
「毎日肌身離さず……?」
 槐詩はハッとした。
「お、お、お前は………まさか!」
 槐詩はノートの表紙を開いた。最初のページに描かれている鳥のシルエットが……消えていた。
まさか本から飛び出して実体になったのか?
「そんなところね」
 カラスはその赤い目で槐詩を凝視した。
「私が何者かは問題じゃない――さっきの話、私が嘘を言ったと思う?」
 カラスは言った。
「死の記録を、あなたもその身をもって体験したでしょう?」
 槐詩は昨夜見た絶え間ない悪夢に思い至り、無意識に体を震わせると、掠れた声で言った。
「彼らは本当に……死んだのか?」
「ええ、間違いないわ」
 カラスは頷いた。
「あなた以外、あの箱に接触した人間は、みんな死んだ。あの箱の中身はすばらしかった!長年眠っていて、あんなに多くの源質を補充できるなんて思わなかったわ。だいたい、八百人から九百人分くらいかしら?」
カラスは思い出してうっとりしているようだった。
しばらくして、カラスは楽しそうに槐詩を見た。
「あなたがくれたもののお礼に、助けてあげましょうか、少年?」
  ※
  ※
「銅四十グラム、銀五十七グラム、錫十二グラムの粉末……坩堝とガスコンロ一式、鉛の塊は無料でサービス……」
夕方、一日中市内を駆けずり回ってやっと帰宅した槐詩は、手に提げたビニール袋をテーブルの上に置いた。
「ネットバンクの枠も目いっぱいで、借金だらけだ。こんなものを買ってどうするんだ?」
「錬金術よ」
烏鴉は羽根を嘴でつくろいながら、淡々と言った。
「普通の人間でも使える聖痕を作るのは難しいけど」
「聖痕?」槐詩は失笑した。「崩壊3rdか?」
「それはなに?現代人のジョーク?」
「いや。ただのゲームの話だよ」
「違うものよ、槐詩。私の言う聖痕は、ゲームとは違う」
烏鴉うやは冷静に解説した。
昇華者しょうかしゃの持つ霊魂の本質は、奇跡のミニチュアなの。聖痕せいこんとは神の遺産を解析して生み出された成果なのよ。奇跡の痕跡を遡り、神聖なる道を辿り、神の行いを模倣し、神の権威と残存する痕跡を調査し研究して作り出された存在。金属と薫香の組成の秘儀、巨大な奇跡を模して造られる小さな奇跡……それが『聖痕』」
「……神?」
 槐詩は驚いて尋ねた。
「この世に神はいるのか?」
「かつてはいたわ」
 烏鴉はしばらく沈黙していた。
「でも皆死んでしまった。時代に捨てられたものたちはいまの世の中では顧みられず、きっと間もなく、記念としての価値すらなくなってしまう」
烏鴉は多くを語りたがらず、槐詩に坩堝をコンロにセットするように催促すると、初めての錬成を始めるよう促した。
「これだけで足りるのか?」
 火の温度を設定すると、槐詩は烏鴉の指示に従って作業を始めた。マスクを着け、鉛の塊を削って粉にし、それに自分の血を混ぜ、極薄の金属板の上にまったく読めない文字を注意深く書いた。その文字の構造は簡単だったが、些細な間違いも許されなかった。
 烏鴉の眼光は鋭く厳しく、ちょっとでも違う部分は描き直しさせられた。何CCの血液が無駄になったかわからないが、槐詩はついにその仕事をやり終えた。
「これらはただの補足材料。いちばん簡単な聖痕でも、普通の火と普通の金属では錬成できないの。でもいまは急場しのぎをするしかない。将来もっと高級な聖痕を作る時は、幻獣の血や大量の生贄、さらには……」
 烏鴉は言葉を切ると、そっけなく言った。
「十分間休憩、十一時から再開。これがたった一度のチャンスよ。失敗してもやり直すための材料費はないのよ?」
 金のことを持ち出され、槐詩はさらに緊張した。ペンを持ち、烏鴉が言った順序を何度も繰り返し確認し、脳内でイメージトレーニングをする。
 烏鴉は坩堝の傍に立つと、炎をじっと見つめた。
瞬間、炎の色が赤から純白になり、無数の絢爛な光の流れがその中から浮かび上がった。
 烏鴉の姿が段々と薄くなっていく。
「これは?」
「源質。燃える源質」
 烏鴉は槐詩をちらりと見ると、次の質問を待たずに解説した。
「源質というのは、霊魂を構成する物質。物質として保存された精神とも言える……霊魂の欠片だと理解すればいいわ。あなたの集めた材料では足りなくて、火に工夫をするしかなかったの。一秒ごとに一人分の霊魂が燃やされている。出所は心配しなくていいわ、あの箱にあった残りだから」
 槐詩はゴクリと唾を飲み込んだ。何を言っていいのかわからなかった。
一秒ごとに一人分の霊魂が燃やされるという恐怖ももちろん、あの箱の中に入っていたものは、烏鴉の話によれば、千人分近くの源質……
 あの箱はいったい何だったんだろう?
「あれこれ考えてないで、始めるわよ、槐詩」
 烏鴉は槐詩をちらりと見た。
 坩堝の中の鉛の溶液はボコボコと泡立ち、今まで嗅いだこともない悪臭とかぐわしい香りが立ち上っている。
 溶液の薄灰色の中から一筋の金色が現われた。
 まるで灰の中にたゆたう金粉のようだ。
 槐詩は多くを考えず、順番通りに並べてある物を手に取ると、次々と坩堝に投入した。まずは錫、それから銅、最後に銀……
 投入する度に、坩堝の中の金属の溶液はさざ波すら立てず、瞬間的に投入されたものを溶かして吞み込んだ。
 純白の炎は突然大きく燃え上がり、無数の光の流れが貪欲に坩堝の中に呑み込まれ、激しい光が槐詩の目を刺した。
 最後の瞬間、槐詩は烏鴉の溜息交じりの声を聞いた。
「このチャンスをものにしたいわね、槐詩」
 小さな呟きとともに、希薄な幻となったカラスは両翼を広げ、羽ばたかせると、坩堝の中に飛び込んだ。
 ゴオッ!
 重苦しい唸り声が聞こえ、炎は消え、坩堝の中の液体は蒸発し、空中に複雑な輪郭が描かれ、最後に、内側に向かって収束した。
 槐詩が見つめる前で、それは次第に凝固して実質となり、空中をふわふわと漂って落ちてきた。
 それは一本の羽根。
 金属の羽根。
 純銀で鋳造されたような羽根は細かい線の一本まで繊細で完璧で、小さな傷すら見つからなかった。鏡のような光沢に覆われ、全世界を映すかのように光を反射し、絶えず様々な奇妙な景色がその中を閃いていた。
 羽根は落ちて槐詩の手に収まった。
「これが私の本体、無系譜特性の聖痕――事象分枝」
 耳元で響く烏鴉の声は、疲れ切っていた。
「このノートと事象分枝を持っているということは、おそらく動乱の前、あなたには予備書記官を担当する資格があったらしいわ」
 槐詩は驚きに満ちた表情で、手の中で風もなく翻る厚いノートを見ていた。眩暈がし、流れる無数の字を見ていると、鏡に映ったもう一人の自分を見ているような気がした。
 もう一人の、文字の記録の中の自分。
「いったい……これは何なんだ?」
「うん、それはつまり……地上にある天国の最後の残影といったところ」
 烏鴉は小さく溜息をついた。
「『運命の書』よ」
次の瞬間、無数の流れる文字が急速に収斂し、最初のページ、カラスのシルエットがあった場所に、一行一行、新たに文字が現れた。

 槐詩(応激期)
 称号:無し
 聖痕:無し
 神跡刻印:無し
 特有技能:常識lv.3
      芸術・演奏・チェロlv.6
      死亡予感lv.0  
 ……

「見て、いまあなたは、この書の主人と認められたのよ」
 烏鴉は疲れた声で言った。
「具体的な使用方法は自己鍛錬。私はひと眠りするわ……」
「ちょっと待った、『死亡予感』ってなんだ?なんでぼやけてるんだ?」
 槐詩は顔をページにくっつくほど近づけたが、この一行だけは文字がはっきりと見えなかった。
「つまり死亡に対する予感。どんな形であれ、何十回も死を経験したなら、体得したものがあるでしょう?まだ入門レベルで、技能とは呼べないけれど。まさかチェロの演奏技術がレベル6だなんて、この子、本物の天才かもしれないわね……」
 話し声は次第に遠くなり、ついに聞こえなくなった。
 多分眠ったのだろう。
 驚きに目を見開いた槐詩は羽ペンとノートを手に取り、それからノートを見た。注意深く一頁一頁めくってみたが、中身には何の変化もなかった。
 後ろの方にあった数十頁分のプロフィールのうち、数ページが微かに光を放ち始めた。
 槐詩は数秒躊躇ったが、羽ペンを持ち上げ、ページをつついてみた。
 瞬間、ページが光った。
 光芒が槐詩を呑み込んだ。

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