『天啓予報』第60章 ナーガ

第六十章 ナーガ

 激しい揺れの中、何かが上で爆発したようだった。
 槐詩かいしたちは遠くで銃声が何度も響くのを聞いた。誰かがここに攻めてきているらしい。振動と轟音は絶え間なく地下空間から響いてきた。
 槐詩と柳東黎りゅうとうれいは目を見かわし、もう一本の道のことを思い出し、上層に向かって駆けだした。
 上に向かう道の行き止まりに来た時、そこかしこに倒れている死体が見えた。
 ここは祭祀さいし場全体を運営している者たちの集会場所のようで、広い事務室はこの上なく豪奢だった。だがいま、輝く柱とレリーフを施された壁は血に染まっていた。
 一体、また一体と、死体は床に横たわり、顔には絶望や媚びた笑顔がまだ留まっていた。
 内側では銃声が響き続けている。
 虐殺は進行中であった。
 槐詩たちが室内に入った時、机の影に隠れるようにして跪き許しを請うている王海おうかいと、その前に立ちはだかっている逞しく大きな影が見えた。
 重厚なコートの袖口から、鱗でおおわれた腕が出ている。
 そして一対の漆黒の弯刀。
 王海に向かって伸びている弯刀の刃先から、血がポタポタと滴り落ち、床に赤い染みを作っている。
「俺を殺したら、上主はお前を許さないぞ!」
 王海は角に追いつめられ、顔色は蒼白だった。
「俺は上主の代理人だ。もし俺が死んだら、お前たちをただでは置かない。必ずだ!」
 王海は手に持ったナイフをめちゃくちゃに振り回した。
 人影は王海のナイフにもまったく怯まず前進した。弯刀が風を切って王海の首に斬りかかった。
 柳東黎が銃を抜いた。
 槐詩は柳東黎がこんなに銃が上手いとは思っていなかった。一発目の弾丸は弯刀に中たり、残りの五発はすべて弯刀を持った人間の後頭部に命中した。
 だが残念なことに、衣服と鱗を穿っても、異化した頭蓋骨を撃ち抜くことはできなかった。
 人影はよろめき、振り下ろした刃は王海の両脚の間を切った。王海は短く鋭い叫び声を上げた。驚きのあまり涙と鼻水が流れ出した。
「助けてくれ!」
 救いの神を見たかのように、王海は入ってきた二人に向かってしゃがれた声で叫んだ。
「助けてくれ!金はある!数千万ある!ほしいだけ全部やる!」
 王海に言われるまでもなく、槐詩は内情を知る人間が目の前で口封じをされることを見過ごせなかった。
 槐詩は銃を抜くと、振り向いた弯刀使いを狙いって立て続けに引き金を引いた。
 銃声が轟き、銃口が火を吹いた。灼熱に赤くなった弾丸は弯刀を持った昇華者しょうかしゃへ飛んでいった。彼は既に異化しており、人間の顔をしていなかった。
 鱗で覆われた、啼蛇ていだと殆ど変わらない顔は、鼻がなく、替りに小さな二つの穴があった。黒緑色の唇は鋭い歯を覆い隠さず、金色の縦長の瞳は人をゾッとさせた。
 蛇と蜥蜴どちらに似ているか。
 冷血動物の奇妙な特徴は、見る人の心まで凍らせるようだった。
 槐詩が銃を持ち上げた瞬間、相手も手に持った弯刀を上げ、顔を守った。 漆黒の弯刀は盾のように弾丸をはじいた。
 そして右手の弯刀を、飛び掛かってきた柳東黎に向かって振り下ろした。
ナーガの耳の傍で鋭い斧が風を切る音がした。離れたところにいたピギーが 既に目の前にいて、手に持った祭祀刀さいしとうを喉に向けて横に振った!
 速い!
 金色の縦長の瞳孔が収縮し、眼前を守っている左手の弯刀を祭祀刀の方に向けた。つづいて、重い斧とぶつかったように、防御の姿勢は押し潰された。
 槐詩は蛇人の体が傾くのを見た。
 つづいて、空気がねばねばした実体に変わったかのように、蛇人の二本の腕が掻き回して湧き上った暗い流れがぶつかってきて、槐詩はよろめいた。 そして蛇人が空中に飛び上がるのを見た。
 いや、海の中を泳いでいるようだと言うべきだろう!
 彼の周囲の空気が瞬間的に液体のように変化し、引力の束縛を逃れて、無形の空海の中を泳いでいる。
 これが奴の霊魂能力!
 槐詩と柳東黎の挟み撃ちを躱して空中で敏捷に回転し、まだ状況に慣れていない二人に向かって刀を振り下ろした。
 柳東黎は慌ててブロックし、槐詩はビニール袋を投げつけた。袋は刀に当たって破れ、飛び散った劫灰こうかい圏禁けんきんの手の作用によって激発した。
 あっという間に空気の海が黒く染まり、激しく咳込む声が聞こえてきた。槐詩は動きを止めず、真っ直ぐにその中に入っていった。
 柳東黎は唖然とした。
 いつの間に弟はあんなに逞しくなったんだ?
 一瞬も経たないうちに、漆黒の中から蛇類の鋭い悲鳴が聞こえてきた。赤い祭祀刀が漆黒の空気の海を透かして見えた。
 刀の刃に血がべったりと付いている。
 瞬間、空気の海が炸裂し、蛇人は地面に落ちて躓いた。
左腕には酷い裂け目があり、祭祀刀に殆ど斬り落とされそうになっていた。
刃がぶつかる鋭い音の中、槐詩は無表情に、足を上げて踏みつけた。
ドン!
 地面に落ちた蛇人は震え、右手で繰り出した弯刀は槐詩の祭祀刀に弾かれた。ピギーのお面を頭に載せた少年は蛇人の胸を踏みつけ、両手で祭祀刀を持ち上げ、下に向かって勢いよく振り下ろした!
 勝負あり!
 ドン!
 その瞬間、蛇人のコートの胸の前に大きな裂け目ができ、一本の腕が伸び出てきた。手は振り下ろされた祭祀刀を掴んだ。刀には斧の力が加わっており、蛇人の掌はずたずたになった。
 第三の手?
 つづいて、四本目!
 蛇人の背から、隠れていた第四の腕が伸びてきた。手は短い散弾銃を持っていて、槐詩の顔に向かって引き金を引いた!
 少年は瞬間的にのけぞって、突然の一撃を躱した。
 柳東黎ははっきりと見た。
 蛇人の突然生えてきた二本の腕だけではなく、一瞬の間に少年の体から立ち上った灰色の霧を。
 封鎖の中で爆発する劫灰、それらは炎のように舞い、実体となった苦痛が拡散され、室内全体に抗えない絶望が充満している。
 仮面の下、一対の漆黒の瞳が、いつの間にか赤く染まっていた。
 まるで燃える火のようだ。
 痩せた少年は山の中の悪鬼のように見えた……
 何の聖痕せいこんだ?
 柳東黎の知っている系譜には、そのような存在はなかった。水銀段階ですらこれほど人をゾッとさせるような聖痕は。
 柳東黎は四本腕の蛇人に自分の顔を見せるために仮面を取って飛び出そうとし、自分の足に何かが纏わりついていることに気づいた。
 尻尾。
 長い蛇の尾。
 いや、これは……
 柳東黎は思い出した。
 こいつの聖痕は蛇人などではない、天竺バラモン系譜の第二段階・黄金級の聖痕――ナーガ!
 四本の腕は、ミャンマーに伝わった後の変種!
 槐詩は手に持った祭祀刀を振るい、ナーガの反撃を牽制しようとした。つづいて、彼は見た。ナーガの腕の一本が弯刀を捨て、懐から閃光弾を取り出し、彼らに向かって投げるのを。
 次の瞬間、激しい閃光に呑み込まれた。
 槐詩は素早く後退し、手に持った刃を前に向かって振り下ろした。
 何もかすらなかったようでもあり、何かを切ったようでもある。
 そして一発の銃声を聞いた。
 激しい眩暈と吐き気の中、槐詩は腰を屈めてもう一袋の劫灰を取り出し、地上に撒いた。黒い霧が立ち込め一切を呑み込んだ。この一手は相手の奇襲を防ぐこととなった。
 二人が激しい眩暈から回復した時、既にナーガの姿は見えなくなっていた。
 ナーガは逃げた。
 血溜まりに王海が残された。
 王海の喉と胸は鋭利な刃で切り裂かれており、鮮血が噴き出し、喋ることができなかった。
 槐詩は覆いかぶさって脈をみたが、すぐに指を放した。
 助からない。
 傷口には黒緑色の層が浮かび上がっていた。刀には毒が染み込んでいた。 いや、もし毒龍ナーガだったなら、毒がなければおかしいだろう。
 柳東黎は王海をちらりと見ると、時間を無駄にせず、箱をひっくり返して 価値のある書類を探した。
 槐詩は王海を助け起こし、彼の眼を開かせようとした。
「目を覚ませ!まだ時間はある!誰がお前を殺した!」
 槐詩はポケットから指輪を取り出した。
「誰がこの人たちを殺した!誰がお前にここに隠れるように命令した!話せ!王海!」
 王海は陸に上がった魚のように、力を振り絞ってもがいた。彼の両手は、自分を捨てていこうとする生への望みを掴もうとし、槐詩の袖口に血の跡をつけ、ピギーのお面をずり下げた。
 王海は槐詩の顔を見て、驚き、すぐに恨みに満ちた凶悪な目つきになった。
「お前か……すべてお前たち……お前たちの……せい……」
 血を噴き出し続けていた王海の開いた唇は、嘲弄の弧を描いた。
「俺たちは……死ぬ……すぐに……」
 王海は突然もがくのをやめ、傍にあるナイフを掴むと自分の心臓に振り下ろした。
 ドッ!
 赤い色が噴き出し、槐詩の顔にかかった。
 火が燃え始めた。
 激しい揺れの中、上の階は再び爆発が起きて、下の階も崩れようとしている。
 槐詩は溜息をつくと、ゆっくりと王海を放し、指輪をしまった。
その後のことは取り立てて述べるようなことはなかった。
 柳東黎は特事所の大部隊が到着する前に倉庫を離れ、車で槐詩を送ってくれまでした。
 槐詩の魂の抜けたような様子に、ホストは思わず首を振った。
「色々考ることはあるだろうが、今夜はゆっくり休め。明日探偵のところへ行ってみよう」
 槐詩は頷き、車を降り、彼が去るのを見送った。
 家に帰り、客間のドアを開けると、烏鴉うやが待っていた。
「話を聞いてくれる人がほしいみたいね」
 黒い鳥は湯を沸かしている電気ケトルの上に立って尋ねた。
「コーヒー?お茶?」

訳者コメント:
以前、凶猿に襲われた時に柳東黎の撃った銃弾が危うく槐詩の足にあたりそうになったことを覚えているでしょうか?あれは下手なふりだったんでしょうか?……柳東黎も謎の多い人物です。

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